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世田谷・大蔵村の名主「旧安藤家住宅主屋全景(世田谷区立次大夫堀公園民家園内)」のご紹介|古民家を訪ねる旅

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世田谷・大蔵村の名主「旧安藤家住宅主屋全景(世田谷区立次大夫堀公園民家園内)」のご紹介|古民家を訪ねる旅

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世田谷・大蔵村の名主「旧安藤家住宅主屋全景(世田谷区立次大夫堀公園民家園内)」のご紹介

旧安藤家住宅主屋(区指定有形文化財)
旧所在地 世田谷区大蔵62
規模
主屋 桁行 13.5間 (24.57m)
梁行 6間 (10.92m)
床面積約 100坪 (310.93m²)
内倉 桁行 2.5間 (4.55m)
梁行2間 (3.64m)
床面積 約10坪 (33.124m²)
表門 親柱間 約7尺8寸 (2,350m)
控柱間 約4尺9寸 (1.480m)

旧安藤家住宅配置図

旧安藤家住宅配置図

旧安藤家があった「旧大蔵村字本村」について

旧安藤家のあった旧大蔵村字本村(現在の東京都世田谷区大蔵)は、東西に次大夫堀が流れ、北側の台地上には「大蔵氷川神社」、西には「永安寺」と元名主であった石井家の屋敷「帰去来園(きょらいえん)」などがありました。

安藤家は、本村のほぼ中央に位置し、屋敷の北側には「氷川神社」が建ち、南側には「次大夫掘」が流れていました。

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名主「石井家」と姻戚関係を結び大蔵村へ移り住むんだ「安藤家」

安藤家初代とされる安藤兵庫は、大蔵村の名主だった石井家と姻戚関係を結び、寛永年間(1624〜43)に石井家が大蔵村に居住するに従い、移り住むようになったと考えられています。

1834年、石井家より名主職を引き継いだ「安藤家」

その後、安藤家は、鎌田村名主を勤めた平左衛門家と、大蔵村に居住する六右衛門家とに分家しました(六右衛門家が現在の安藤家につながる)。六右衛門は天保5年(1834)大蔵村の名主職を石井家より引き継ぎ、その後、2代にわたり名主を勤めました。

明治4年(1871)からは戸長(こちょう)を勤め、村の中心として活躍しました。

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旧安藤家の屋敷構え

区指定有形文化財の『板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図』(明治7年奉納)からは、旧大蔵村字本村の江戸末期から明治初頭の様子をうかがうことができます。
画面を横断するように「次大夫堀」が流れ、左に「永安寺」、中央上部にか「氷川神社」が大きく描かれています。氷川神社の右下には、周辺の家屋よりも大きく描かれ、黒板塀で囲んだ「安藤家の屋敷」が見えます。
屋敷構えは、次大夫堀に面して門を構え、中心には「主屋」と思われる大きな屋根の建物、庭には白壁の「土蔵」が2棟と、「納屋」らしき建物が2棟描かれています。

これらの配置は、解体前の安藤家の姿と比較しても、大きな違いはありませんでした。

旧安藤家建物の復元

旧安藤家住宅は、平成5年に世田谷区指定有形文化財に指定され、解体保管工事が行われました。その後、平成7年より約2年半の移築復元工事を経て、平成10年3月に竣工しました。

旧安藤家住宅配置図

復元されたのは、「主屋」「内倉(外倉として使用していたものを転用)」「表門(新築)」「中門」「板塀」です。

旧安藤家・建物の特徴

旧安藤家復元平面図(明治中期頃)

旧安藤家復元平面図(明治中期頃)

旧安藤家復元平面図(明治中期頃)
東側「役宅」
式台
げんかん
ぶつま 仏壇
はちじょう 床に付け書院、違い棚
じゅうにじょう
じゅうじょう 戸棚、床
西側「日常生活」
だいどころ 囲炉裏、流し、置きベッツイ
ひろま 神棚や札額
どま
なんど
なんど
いとば
みそべや
蔵前
内倉

旧安藤家の主屋

主屋は、寄棟造り(よせみねずくり)茅葺きの屋根をもつ、一部中2階付きの木造平屋建てです。間取りは、八間取り(やつまどり)を基本とした9室から成っています。平面構成は、中央の「式台」を境に東側を「役宅」、西側を「日常生活」の用途として分けており、名主家としての特徴をよく表したものとなっています。
役人などの上客を迎えるための作り
正面中央には、役人などの上客を迎えるために使われた「式台」が設けられています。この部分には瓦葺きの屋根がのり、「式台」より東側は「げんかん」を介し「じゅうじょう」「じゅうにじょう」「はちじょう」と、役向きの部屋が配されます。
名主のみ許された「造作仕様」
これらの各部屋は、「畳敷」「漆喰塗壁(しっくいぶりかべ)」竿縁天井(さおふちてんじょう)長押(なげし)「釘隠し」「床」など、一般農家には見られない、名主としての職務上許された造作となっています。
接客の場「はちじょう」の本床形式
「はちじょう」「じゅうにじょう」は、役人などの接客の場であり、中でも「はちじょう」は上座敷(かみざしき)として「床に付け書院」「違い棚」「畳床(たたみどこ)」を構えた本床(ほんどこ)形式をそなえています。

また「じゅうにじょう」との境には、板戸や格子欄間(こうしらんま)が立て込まれます。

名主の執務室として使用された「じゅうじょう」
「じゅうじょう」は主に名主の執務に使用した部屋と推定され、畳も一般農家に見られる琉球表(りゅうきゅうおもて)が使用されています。また床は、踏込床(ふみこみどこ)を設ける程度の造作になっています。

「じゅうじょう」から「はちじょう」にかけては内庭に面して内縁が廻り、北端に内便所が配されます。

日常生活に使用された西側の部屋

一方「式台」より西側は「どま」「ひろま」「だいどころ」・「なんど」と日常生活に使用する部屋が配されていました。

旧安藤家復元平面図(明治中期頃)

安藤家の中心の場「どま」

「どま」は、雨天や夜間の作業・炊事など様々な用途に使用することができました。区内に見られる一般農家と比較して、約2倍の面積を有しており、農家としての安藤家の中心の場となっていたことが分かります。
主屋の特徴「3本の欅柱」
この広大な空間を支えるため、直径約1尺6寸(48cm)の松梁を3本かけ「どま」「ひろま」境に立つ約1尺角(30cm)の欅柱(けやきばしら)3本でそれぞれを受けており、この主屋の特徴となっています。

床上の各部屋は板敷きで、壁は「中塗仕上(なかぬりしあげ」、ひろまと、だいどころは「竹の子天井」、西側のなんどには「踏込天井」としています。

「ひろま」

「ひろま」は居間として使われた他、日常の接客などにも使用されていたと思われます。この部屋の北面と東面の壁には「押板(おしいた)」と呼ばれる棚が設けられ、北面上部には神棚や札額なども掛けられています。
【押板】は床の前身ではないかという説もある。区内の民家にも見られ、岡本公園民家園内の旧長崎家にもその痕跡が残る。

「だいどころ」

「だいどころ」には「イロリ」が切られ、土間に張り出した板の間に「流し」「置きベッツイ」を置き、炊事や食事の場として使用していました。

2室の「なんど」

「だいどころ」の東側に2室並んだ「なんど」は、家族や使用人の寝室として使われていました。特に西側の「なんど」には、使用人の寝室として、中2階が設けられています。
「みそべや」「いとば」
「どま」の西側には「みそべや」と、生糸作りに使用した「いとば」が下屋として張り出しています。
旧安藤家復元平面図(明治中期頃)

旧安藤家の内倉

主屋の北側に隣接して建つのが「内倉」です。内倉は土蔵造り2階建てで、瓦葺きの置屋根がのります。外壁は漆喰仕上で、腰には下見板(したみいた)が付きます。
内倉の内部
内部は床を板張り、壁は「柱」「貫(ぬき)」を表した漆喰仕上げになっています。1階天井は、上階の床にもなる踏込天井を、2階は天井を張らず、垂木(たるき)や野地板(のじいた)表しとしています。

内倉には、人寄せのための什器や衣類などの家財が納められていました。

家格を示す重要な「表門」

旧安藤家住宅配置図

表門は現存する安藤家のものにならい、薬医門(やくいもん)形式としています。中央に両開き扉と脇には潜り戸(くぐりと)を持ち、切妻(きりづま)の瓦葺き屋根がのります。

当時の一般的な農家では門を構えることは許されず、門構えは家格を示す重要なものでした。

中門、板塀、内庭

「内庭」も名主家として重要なしつらえの一つです。内庭は役宅部分の前面に位置し、これらの部屋と同様、「表向きの場」として位置付けられています。そのため、板塀と中門で仕切り、他の庭と区別していました。
安藤家ではこれらの様子がよく残っており「中門」「板塀」は平成2年に解体保存し、主屋と併せて移築復元しました。

内庭には、聞き取りにより池と築山を再現しています。

建築年代と復元年代

解体調査・発掘調査伝承・資料等から、主屋と屋敷の旧状を考察しました。解体調査からは「式台」を境に、東西で部材や架構方法に違いが見られます。
東側柱の架構方法は「京呂組」
東側の柱は主に、4寸角(12cm)の「杉材」を使用し、架構方法には一部に「京呂組」が認められました。
【京呂組】柱の上に桁をのせ、小屋梁を架ける工法。近世になって考案された。
西側の柱は「折置組」
西側の柱は、径が太く堅い「欅材(けやきざい)」を多く使用しており、梁構方法は「折置組(おりおきぐみ)」でした。
【折置組】柱の上に直接小屋梁を架し、その上に軒桁を架ける工法。京呂組よりも古い工法。
また発掘調査からは、式台のある通りを境に、東西で異なった地盤の構築が成されていることが分かりました。その他、天保10年に「役宅の改修」に要する資金の借用を願いでた文書資料や、元名主であった石井家より建物を譲り受けたという伝承も残っています。
名主職となった天保5年以降に、家屋敷ともに順次整備していったと推定されますが、主屋の建築年代を確定することはできませんでした。

「明治中期頃の安藤家」を想定した移築復元

移築復元にあたっては、明治中期頃の安藤家を想定しています。この時期の安藤家は「農業」に加え「養蚕」「製糸」「水車」「渡世(とせい)」などを行い、経済的に最も盛況を見せていました。
また屋敷には名主としての特徴が残り、最も完成された屋敷構えを持っていたと思われます。加えて内倉は明治28年に建てられており、この時までにはすでに、現在の規模で主屋が存在していたものと考えられるからです。
屋敷配置の復元では、表門の脇に穀倉として旧秋山家土蔵を、左手には納屋(作業員詰所)・外便所を配し、出来る限り当時の屋敷構えを再現することに努めています。また主屋の屋根には、関東大震災で壊れた養蚕のための「煙出し櫓」を、2ヵ所取り付けてあります。

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