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「村の歴史(律令時代から現代まで)」についてご紹介|世田谷の歴史

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【古民家】
農村
(村の歴史|江戸時代の組織/生活|武蔵国・喜多見|六郷用水(開削|取水問題)|高札)
農業(雑木林/閑散期)
古民家 特徴/立地|配置/向き/地相
普請と建築儀礼 普請(大工|鳶職人)|建築儀礼(地鎮祭|釿始め|上棟式|棟梁送り)
▽世田谷民家園(旧長崎家|旧加藤家|旧城田家|秋山家土蔵|旧谷岡家表門|旧安藤家)
茅葺き屋根(|維持/修繕)
部位(|大黒柱|長押|)
建築・古民家関連用語
■民俗学
民具(民具とは|鍛冶道具|)
信仰(家に祀られる神々(荒神・納戸神|恵比寿講|)
家の外で祀られる神々(屋敷神/お稲荷さま|)
節句(正月|十五夜/十三夜)
【関連】
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1932年、世田谷区が誕生

昭和7年(1932)10月1日、「世田谷町」「駒沢町」「松沢村」「玉川村」の4地域が合併して世田谷区が誕生しました。その4年後の昭和11年(1936)10月1日には、北多摩郡に所属していた「砧村」と「千歳村」を編入することにより、現在の世田谷区域が確定するになります。

独自の歴史を持つ2町4ヶ村(世田谷町/駒沢町/松沢村/玉川村/砧村/千歲村)

世田谷区は、2町4ヶ村が合併することによりできあがったのですが「世田谷町」「駒沢町」「松沢村」「玉川村」および「砧村」「千歲村」は昔から1つのまとまった地域として存在していたのではなく、それぞれに独自の歴史を持っていました。
世田谷区は、2町4ヶ村が合併することによりできあがったのですが「世田谷町」「駒沢町」「松沢村」「玉川村」および「砧村」「千歲村」は昔から1つのまとまった地域として存在していたのではなく、それぞれに独自の歴史を持っていました。
7ヶ村が合併して世田谷村が成立
例えば世田谷町は大正12年に世田谷村から世田谷町となりましたが、明治22年に「世田谷村」と「下北沢村」「代田村」「池尻」「三宿村」「太子堂村」「若林村」「経堂在家村」の7ヶ村が合併して新しく世田谷村が成立しました。
5ヶ村が合併して誕生した「砧村」
また砧村は明治22年に「喜多見村」「宇奈根村」「鎌田村」「大蔵村」「岡本村」の5ヶ村が合併して誕生しています。
5ヶ村が合併して誕生した「砧村」

近代日本の政治・行政の基礎を作るため、明治22年に町村合併が促進された

明治22年は、市村制が施行された年で、近代日本の政治・行政の基礎を作るため、前年に公布されたこの法律によって町村合併が促進されました。全国的規模で行われた町村合併の中、現在の世田谷区域においてもいくつかの村を合併してより大きな町や村が作られたのです。
では明治22年以前はどうかというと、砧村成立に参加した「喜多見村」「宇奈根村」「鎌田村」「岡本村」「大蔵村」の5ヶ村は江戸時代から独立した村として存在していました。
しかも、その村の中もまた、いくつかに細分されています。例えば「宇奈根村」の場合、村の中は「千縫(せんぬい)」「北口」「中通り」「台口」に分かれていて、念仏講(ねんぶつこう)など村人の重要な生活単位となっていました。

以上見てきましたように、現在の区・市・町・村の範域は昭和になってから確定したものが多く、それ以前の町や村はその時代時代の要請により、合併や分割を繰り返して形作られたのです。

村のはじまり

村の中で人間が暮らしてゆくためには、1人だけの力ではどうにもならないことの方が多く、仲間同士で助け合わなければなりません。農村や漁村において、田植えや稲刈、あるいは網漁を村人が助け合って行う共同労働組織が作られているのもそのためです。
あるいはまた、屋根の葺き替えや葬式などに際しても、人々は協力しあって生きてきました。すなわち、人々は集団生活を営むことによって初めて、きびしい自然の中で生きることができたのです。

「ムラ」という言葉の起源
「ムラ」という言葉の起こりも「ムレ=群れ」から来ていると言われています。人々が寄り集まって集団生活を営んでいた場所がムラと呼ばれるようになったわけです。
日本でムラという言葉がいつ頃から使われるようになったのかはっきりとはわかりませんが、720年にまとめられた「日本書紀」の中にもすでに、「村」や「邑」の漢字が使われ、ムラと読まれています。もちろんムラという日本語はこれ以前にもあったのでしょう。

律令時代から戦国時代にかけての村

645年、中大兄皇子や中臣鎌足などを中心にして行われた大化の改新後、「大宝律令」が制定せられ、土地と人は国家の所有であるとする「公地公民制」となりました。

一方それぞれの地方には国が置かれ、その中はいくつかの郡に分割されました。郡の中には50戸を単位とする里が置かれ、租税徴収の基本的単位とされたのです。

自然に形成された「ムラ」と行政的に作り上げられた「里」
といっても、元からあった人々の生活単位であるムラとこの里が同一であったかどうかはわかりません。ムラは人々の生活の必要から自然に形成されたものであるのに対して、里はいわば行政的に作り上げられたものですから、両者の間にはかなりの違いがあったものと考えられます。

土地所有制度「荘園」が現われ始める

律令体制のもとでは公地公民であった原則も、時の流れとともに次第に崩れ始め、国家も土地の私有を認める「三世一身の法」や「墾田永年私財法」などの法令を発しなければならない状況になりました。

こうした中で「荘園」と呼ばれる土地所有制度が現われ始めます。

「荘園」の特徴
8世紀頃から現われ始める「荘園」は土地からの収益を目的とした土地所有制度ですが、荘園所有者が中央の国家権力に結びついた貴族や大寺院であること、荘園の所在地が所有者の住んでいる場所から遠く離れているために現地拠点としての「荘所」が設けられているなどの特徴があります。

「名主」と「名(みょう)」

この頃の村がどのような姿をしていたのかを明確に示す史料は残されておらず、現在のところその実態については詳しくわかっていません。ただ一般的に言われていることは、荘園支配の末端組織として「名(みょう)」と呼ばれるものがあり、租税を徴収する基本的単位となっていたこと「名」の中には「名主」と呼ばれる在地の支配者がいて「名」に属する農民を指揮監督していたことなどです。

鎌倉時代後期、農民が年貢を直接「領主」に納める「地下請(じげうけ)」が登場

時代が下って鎌倉時代後期になると、それまで「名主」を通じて土地所有者である「領主」に納められていた年貢を、生産者である農民が直接領主に納める動きが出始めます。
こうした動きは畿内やその周辺地域でいち早く現われ始めましたが、名主を通さずに直接農民から領主へ年貢を納めるやり方を「地下請(じげうけ)」と呼んでいます。

農民たちの中から選ばれた「庄番頭」や「庄屋」などと呼ばれる代表者が直接領主と交渉を行うようになったのです。

戦国大名による「検地」の実施

このような状況の中で「名」は次第にその姿を消すようになるのですが「名」の全面的解体は戦国大名による「検地」の実施によってもたらされました。
戦国大名たちは下臣たちへ、封禄として一定の収穫量のある土地を分け与えなければなりませんでした。そのために実施されたのが検地で、農民の生活集団であるムラを基に、土地の面積や住民の数が把握されたのです。

村の境界が決められた「太閤検地」、行政単位としての村が登場

検地の中で最も有名で、全国的規模で実施されたのが、豊臣秀吉による「太閤検地」です。こうした一連の検地の実施によって、近世農民支配の基本としての村の境界が決められることになりました。このことを「村切り」と呼びます。村切りによって、行政単位としての村が登場することになるのです。

自治的な村落制度「郷村制」の崩壊
検地による村の成立によって、それまで存在していた郷村制が崩れる結果となりました。郷村制は中世末期に見られた自治的な村落制度で、1つの郷内に農民の上層階級である「名主」たちが多くの土地を所有していました。

それらの名主たちが所有する土地(名と呼ばれていました)が整理され、田・畑・屋敷の所在地と所有者(名請人/なうけにん)が記録されたのです。

徳川家康が江戸幕府を開いたことにより「幕藩体制が確立」

慶長8年(1603)に徳川家康が江戸幕府を開いたことによって、近世の政治体制である幕藩体制が確立します。「将軍」を頂点とする幕府は200を超える「大名」たちに領地を与えるとともに、これを強く支配する最高の権力者だったわけです。

幕府から一定の領地を与えられ、その領主権を認められた大名たちは、検地によって範囲の確定を受けた村を直接支配し、そこに住む農民たちの納める年貢によって生活していました。

村の責任者「名主」「組頭」「百姓代」

農民一人一人に割り当てられた年貢は、村全体の年貢=村高(むらだか)として村人全員の共同責任のもとに納める仕組みとなっていましたから、村の中にはその責任者としての「名主(なぬし)」「組頭(くみがしら)」「百姓代(ひゃくしょうだい)」と呼ばれる村役人が置かれました。

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幕藩体制を支える土台「村」
もちろん村は、年貢を納める単位としてだけではなく、共同生活維持のために村祭りを行うほか、用水の管理・共有林野の管理消防・防犯など、人々の様々な日常生活の面で大きな役割を担っていました。このようにして近世の村は形作られ、幕藩体制を支える土台(末端部)として位置付けられてきました。

こうした村は「政村」と区別して「藩政村」と呼びます。

明治の近代的地方自治制度

慶応3年(1867)、徳川15代将軍慶喜により幕制を朝廷に返上する、いわゆる「大政奉還」が行われ、260年続いた江戸時代が終わりを告げることになります。これを受けて明治政府は、西欧諸国に倣った近代的地方自治制度を確立することに勤めます。

「3府1道43県の体制」と「市町村の確立」

まず明治政府は明治4年(1871)に、それまでの藩を廃して県を設置する廃藩置県を実施し、明治21年までに3府1道43県の体制が確定されました。その後明治22年には市制・町村制が施行され、地方自治体としての市町村がその地位を確立します。
財源をまとめて、行政執行能力を高めるための「町村合併」
この市制・町村制に先立って、政府によって強行されたのが町村合併です。政府は町や村に対して国家行政に関する多くの委任事務を行うことと、それにかかる費用を負担することを求めましたが、江戸時代以来の町や村にはこの要求に応えるだけの十分な財源はありませんでした。

そこでいくつかの町や村をひとつにまとめて行政執行能力を高めるために行われたのが町村合併なのです。

1万2000あった町は「1252」に、5万8000あった村は「1万3000」に

町村合併の結果、12002あった町は1252に、58433あった村は13780にそれぞれ激減しました。こうして「藩政村」は制度上その存在を否定されたわけですが、「旧各町村ノ名称ハ大字トシテ之ヲ存スルコトヲ得」(明治21年6月に出された内務大臣訓令第352号「町村合併標準」第6条)として、名称だけは「大字(おおあざ)」として残されることが認められました。
「大字(おおあざ)」と「小字(こあざ)」
「大字(おおあざ)」という名称が使われるようになったことで、それまで使われていた「字(あざ)」は「小字(こあざ)」として区別されるようになりました。
そもそも「字」というのは村の中を細分した1区画を指す名称として使われており「小名(こな)」「囲(かこい)」「耕地(こうち)」などと呼ぶ地方もあります。

文政11年(1828)に作られた『新編武蔵風土記稿』では、世田谷地方の字は「小名」と表記されているようです。

戦後の「町村合併促進法」

第二次世界大戦後も町村合併促進法に基づいて、昭和28年から町村合併が実施されました。この時の合併政策も地方自治体の財政基盤を強化する目的で行われたもので、3年間で約6,000もの町や村が減少しました。

「藩政村」と「行政村」

近代の村は、それまで存在した江戸時代の村=藩政村をいくつか一緒にすることで成立しました。こうしてできあがった村のことを「藩政村」に対して「行政村」と呼びます。

「村」というもの

現在の行政機構の末端部に位置する町や村は明治時代以降の町村合併政策によって作られたものであり、人々の生活の必要から自然にできあがったものではありません。また町や村の中に残されているかつての「藩制村」としての「大字」も、中世以降大名たちが農民を支配するのに都合がいいようにその範域を決められたものです。
このように現在見られる町や村(世田谷区では区政成立以前の世田谷町・駒沢町・松沢村玉川村・千歳村・砧村)は、その時代その時代の歴史的条件によって作られたものであり、昔から同じ姿をしていたわけではありません。

また村の中にある社会組織(例えば念仏講や頼母子講(たのもしこう)などの講組織、あるいは五人組や隣組などの近隣組織)も歴史的条件のもとで作られたものが多く、その種類や役割も決して一様ではないのです。

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