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世田谷領と六郷領「六郷用水(次大夫堀)の管理と取水問題」についてご紹介|江戸時代

世田谷領と六郷領「六郷用水(次大夫堀)の管理と取水問題」についてご紹介 道具/工具
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世田谷領と六郷領「六郷用水(次大夫堀)の管理と取水問題」についてご紹介|江戸時代

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今回は、世田谷領と六郷領「六郷用水(次大夫堀)の管理と取水問題」についてご紹介します。

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次大夫堀(六郷用水)とは

次大夫堀公園の名は、次大夫堀(じだゆうほり/六郷用水)の一部を復元していることから付けられたものです。次大夫堀(六郷用水)とは、今から約380年前の江戸時代初め(1611年)に、幕府の代官であった小泉次大夫(こいずみじだゆう)の指揮によって、15年の歳月をかけて完成された農業用水です。
六郷用水の全体図
世田谷領14ヶ村と六郷領35ヶ村に用水していた「次大夫堀(六郷用水)」
この用水は多摩郡世田谷領和泉村(今の狛江市和泉)を起点に、ここから多摩川の水を取り入れ、世田谷領14ヶ村と六郷領35ヶ村(今の狛江市東部から世田谷区、大田区の多摩川北岸部)を流れ、最後は江戸湾に注いでいました。
全長は約23キロメートルで、用水全体は正式には六郷用水といいますが、上流の世田谷領内を流れる部分に関しては、その土地の人々からは「次大夫堀」と呼ばれていました。

「次大夫堀」は、世田谷の地域では昭和30年代頃まで農業用水として使用されていました。

六郷用水の全体図

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今回は、次大夫堀(六郷用水)完成後、どのように維持・管理がなされていたか、またその使用に関しての秩序や問題などについてご紹介します。

六郷用水の維持・管理を行う「用水組合」

六郷用水が完成して約100年前後経過した18世紀初期頃から、六郷用水に関する様々な古文書に、「六郷領用水組合」という組合がみられるようになります。これは六郷用水を下流で利用する、六郷鎖の35の村々によって組織された組合であり、江戸時代においては、この「六郷領用水組合」が六郷用水の全般的な維持・管理を行っていました。

「六郷用水」維持・管理の主な仕事

この維持・管理の主な仕事は、一つには毎年春に、用水の流れを良くし、水漏れなどを直す、用水のさらい(掃除)を行うこと、またもう一つには、洪水など災害のために用水路が崩壊した場合に、その修復を行うことでした。

以上のような仕事は、組合の35ヶ村がそれぞれの村の生産高(村高)に応じて、人足や材木物品を出し合い、協力して行いました。

世田谷領でも「用水組合」が結成されるが・・・
世田谷領側でも、六郷用水を利用していた14の村々(和泉・猪方・岩戸・喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・下野毛・等々力・小山・上沼部・下沼部)で、遅くとも19世紀には用水組合が結成されたようです。
しかし世田谷領の方の組合は、六郷領用水組合のように、用水のさらい、補修などといった、六郷用水自体の持・管理には全く係わらないものでした。むしろこちらの用水組合は、世田谷領村での六郷用水の使用に関して、六郷領の組合側と争論が起こった際に、世田谷領側の利害を代表して対抗するための組織であり、平常の時には何の役割も持たないものでした。
明治以降の「用水組合」
江戸時代の「六郷領用水組合」は、明治になると、新たに「六郷用水普通水利組合」となり、引き続き六郷用水の維持・管理にあたりました。しかし大正以後の時代は、六郷周辺地域の宅地化・工場化が進み、水田が減少していったことにより、六郷用水の必要性も低下し、用水組合も昭和のいつ頃にか消滅してしまったようです。

六郷用水に対して行われた普請(ふしん)

普請とは簡単に言えば、土木建築工事のことです。江戸時代、六郷用水に対して行われた普請をみると、大きく次の二つの内容に分けられます。

毎年決まって行われた「定式普請」

一つは「定式普請(ていしきふしん)」と呼ばれ、毎年決まって行われた用水堀の手入れ作業でした。六郷領用水組合が、用水の起点である和泉村から終点の六郷領まで、約23キロメートルの用水の全長をさらう春の「定式普請」は、このうち一番大がかりなものでした。

「定式「普請」を行う費用は、たいていの場合、六郷領の村側がすべて負担しました。

臨時応急に行われた「臨時普請」

もう一つは「臨時普請」と呼ばれ、洪水・災害後の修復など、臨時応急に行われた普請がありました。最も多いのは、和泉村の多摩川取水口部分を復旧する工事でした。「臨時普請」はほとんどの場合、幕府がその費用を一部負担して、あとを六郷領の村々で負担しました。

下流の六郷領のみ負担していた「六郷用水の普請」

このような六郷用水に対する普請を見てゆくと、特徴的なことは、上流の世田谷領は一切これに係わらず、下流の六郷領35ヶ村組合の村々のみ、普請の労役や費用を負担していることです。
これは六郷用水が本来、六郷領の水田の灌漑を目的として開かれたもので、当初、世田谷領での使用権は認められていなかったこともあって、その管理責任、負担など一切は、六郷領側を主体としていたわけです。

完成から100年後に認められた「世田谷領の用水利用」

完成後およそ100年経過した1726年(享保11年)に、世田谷領側でも六郷用水の使用が認められ、以後用水は世田谷領と六郷領の双方で使用されることになりましたが、世田谷領側は普請に関する負担をかたくなに回避し、従来のまま六郷領のみが一方的にこれを負担する習わしになってしまいました。

変化する用水普請の仕組み

普請は、江戸時代の初期には、六領用水組合の村々が、直接自分たちの村から人足、資材を出して行っていました。しかし18世紀後期~19世紀になると、村々が直接普請を行うのではなく、普請全体を有力農民に請負わせ、彼らに人足・資材の手配から一切を任せ、その代わりに村々でその代金を支払う「代銭納」の方式が一般化しました。

明治以後も基本的には江戸時代と同様で、請負い制により、定式普請のさらい、臨時普請の取入口修復などが行われていました。

取水問題

六郷用水の水利権は、下流の六郷領が本来的なものであり、世田谷領内での使用は、後から認められたものでした。従って世田谷領側は用水を使用するにおいて、常に弱い立場にありました。

六郷領と世田谷領での取水の話合い

江戸時代の記録によれば、夏場に日照りが続き、水不足で六郷領側の水田が上がってしまいそうになると、六郷領用水組合が上流の世田谷領の村々へ、それぞれの六郷用水分水口を当分の間ふさいで、取水をしないように要請してきました。
そして双方で話合いを行い、その方式(全部ふさぐか、半分だけふさぐかなど)や日数などを合意した上で、取水制限が実施されました。

組合の代表、代官所の役人が立ち合いのもと行われる「取水制限」

世田谷領の村々で、六郷用水の分水口をふさぐ時には、六郷領用水組合の代表、または代官所の役人が立ち合いました。世田谷領側の村役人は、この時に印鑑持参を義務づけられており、これは取水制限の取り決めを記した文書に、押印するためであったと思われます。

このようにして村々の分水口をふさいだ後も、隠れて水を引き入れる者のないよう、代官所の役人や六郷領組合の人々が、昼夜、世田谷領の流域を巡回しました。

世田谷領の六郷側領への不満

このように渇水の場合、常に下流の六郷領側へ水が行き渡ることが優先されていました。しかし、上流の世田谷領でも渇水に喘いでいることには変わりなく、いくら水利権が弱いとはいえ取水を長期に禁止されれば、こちらでも田が千上がり、収穫に影響してきます。

そこで、代官所の役人にお金を渡して、分水口をふさいでおく日数を短縮してくれるよう嘆願することもありました。

また、以上のような渇水時だけでなく平常時においても、六郷領側から世田谷領村々に対し、土手の竹木や、橋杭にからまっているごみくず、また用水路に張り出している洗い場など、用水の流れを悪くする障害物を各村で取り払っておくように指示されていました。

このような六郷側の態度に、世田谷領側が常に従順であったとは限らず、時には争論も起こりました。

取水における村同士の対立

例えば1761年(宝暦11年)には、喜多見村での取水の方法に関して六郷側がとがめ立てをしましたが、喜多見村はこれに応ぜず両者対立して、最終的には幕府役人の裁断により決着がつけられました。
また明治以降になっても、相変わらず、祜村(江戸時代の喜多見大蔵・鎌田・岡本・宇奈根村の範囲)と六郷側とが六郷用水をめぐって対立する状況がみられます。これは、単に取水の制限に対するもの(明治27年)以外に、次大夫堀の水を使用する水車の営業について(大正3年)、また洗い場の使用差止めに対して(大正5年)起こった争論でした。

しかし六郷方面での水田が時代とともに減少してゆくにつれて、上流の世田谷流域での用水使用に関しても、このような規制・干渉は次第に薄れていったようです。

旧上野毛村田中家文書「御用帳」(「世田谷区史科書」巻1~6),「小泉次大夫用水史料」より
世田谷領に対する六郷用水の取水制限
旧暦
西暦 5月 6月 7月 8月
享保 5 1720 ◯7/13
寛延 3 1750 7/22
宝暦
2 1752 5/27~6/3
6 1756 6/3~6/6
10 1760 ◯5/5
5/12~5/20
12 1762 5/17~5/19
13 1763 6/11
6/13~6/17
明和
2 1765
6/9~6/14
(三分留)
7 1770 ◯6/24
安永 6 1777
6/15~6/20
(八分留)
文政
4 1821 5/20~5/25 6/5~6/12
6/15~6/22
6/24~7/2
7/4~7/16
7/18~7/28
8/1~8/8
6 1823 5/18~5/22
5/25~6/3
6/6~6/13
9 1826 5/14~5/20
天保
5 1834 7/14~7/18
8 1837 6/7~6/13
6/14~6/23
◯6/25
10 1839 6/3~6/6(半留)
弘化 2 1845 6/20~6/23
嘉永 5 1852 6/28~7/5
(五分留)
7/11~7/18
○は水行障害物除去の通達
無表記は取水全面禁止

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