アーケードゲームシューティングゲームナムコ(namco)

『ゼビウス』『ドルアーガの塔』の生みの親『遠藤雅伸』の履歴書と年表

アーケードゲーム
スポンサーリンク

『ゼビウス』『ドルアーガの塔』の生みの親『遠藤雅伸』の経歴と年表

ご訪問ありがとうございます。
今回は、『ゼビウス』『ドルアーガの塔』の生みの親、遠藤雅伸さんの履歴書と年表

をご紹介します。

『遠藤雅伸』の経歴

当初テレビ局志望だった……

遠藤雅伸さんのゲームデザイナー経歴は、

大学新卒としてゲーム会社に入社するところからスタート。

 

一見、最初っからゲーム関連の職業を志望していたようだが、さて、じっさいは……。

 

就職活動当初はテレビ局志望だった……

大学を卒業して、すぐにナムコに入社した遠藤氏。

 

でも、じつは就職活動を始めたときから、ナムコ……というかゲーム業界を希望していたわけではなかったのだ。

 

遠藤
遠藤

大学の専攻の画像工学科で、学生時代は写真を撮ったり、『16ミリ映画』を作ったりしていました。

就職活動を始めたときも、それを活かして、テレビ関係の仕事をしようと思っていたんですよ。

 

でも、テレビの世界には徒弟制度のようなものがあるそうなんですよね。

新人はコードの巻き取りからスタートするみたいな。

 

そんな話をいろいろ聞いているうちに、自分の性に合わないと思ったんです。

ナムコに入社

しかし、就職の路線変更した時点でもう12月。

ほとんどの会社では、内定を出してしまっている。

 

ここで遠藤さんは、ゲーム会社の『ナムコ』を受けに行くんだけど、

もちろん『ナムコ』も新入社員の採用はすでに決まっていた。

 

しかし、フトコロの広い『ナムコ』は、特別に遠藤さんの試験と面接を行い、一発で採用を決定したのだ。

NAMCO-ICON

遠藤
遠藤

きっかけは、何か先端技術で遊んでみたいということでした。

もちろんもともとテレビゲームが好きだったんですけど、

この時点では、コンピューターに対する知識はさほどありませんでしたね。

プログラムのことなどは、すべて入社してから覚えたんですよ

 

ちなみに、いまでも『映画』などが好きで、一度は映画関係の仕事をやってみたいそうだ。

『ゼビウス』の誕生

遠藤
遠藤

『ゼビウス』は、もともと穴埋めのC級作品だったんですよ。
僕のような新入社員が担当するようなね。

 

それで、開発を進めているうちに、いろいろナムコ内部の人事異動などが重なり上司などが変わって、ソフトの方針が宙ぶらりんになったんです。

 

そこで、じっさいに担当している僕たちの自由にやらせてくれたのが、『社長』と当時の『開発部長』なんですよ。

あの判断があったからよかったんでしょうね。

 

ちなみに実際の開発期間は1年ほど

約半年間の新人研修を経て、入社2年目には『ゼビウス』を作り上げたのだ。

『アタリ』のファンだった、遠藤さん

この頃、遠藤さんは、アーケード版『ゼビウス』がアメリカで発売される前に、現地の『アタリ』の工場を見学している。

遠藤さんは『アタリ』のゲームのファンで

遠藤
遠藤

『ゼビウス』を、是非アメリカの『アタリ』で生産をしたいです。

と申し出たほど。

ナムコを退職した理由は?

製品ではなく作品を・・・

ナムコで『ゼビウス』、『ドルアーガの塔』などのヒット作を産み出した遠藤さん。

1985年には自ら『ゲームスタジオ』を設立した。

遠藤
遠藤

当時はテレビゲームは『工業製品』という作り方をされていたんですよ。
これは当時から見て、30年前ぐらいのレコード業界と似ているな、

と感じていました。

 

最初蓄音機というものが発売されたとき、音盤というものはプレーヤの会社の社員が生録したものだったわけです。

 

それがだんだんプレーヤーの会社から離れて、いろんな人が自分の音楽を音盤で作るようになって、

初めて『作品』と呼ばれるようになったんですよ。

 

遠藤
遠藤

同じことがゲームソフトにもいえると思いまして、

 

ゲームソフトも作品として認められるには、ハードメーカーから離れるべきだと考えたんですよ。

 

レコード業界もそうやって発展したわけですし。

さらにこの独立には、誰かがやらなければ、

という思いもあったということ。

 

ゲーム業界全体を、深く考えた選択だったんです。

 

中村社長(ナムコ)との出会いが、『ゼビウス』『ドルアーガの塔』を生んだ。

尻込みはするなよ!

 

チャンスは逃すな!

 

一見簡単そうに思えるけど、

遠藤さんの場合は時期が遅れたけど、

臆せずに『ナムコ』を受けにいったってことで大きなチャンスをつかんだといえる。

遠藤
遠藤

『ナムコ』で中村社長に出会ったことは大きなプラスになりましたね。

 

『ゼビウス』という作品を自由に作らせてくれて、なおかつそのまま市場に出させてくれたのも、社長のゴーサインが出たからなんです。

 

若い人を認めようという意識は、いまでも持っているようですし、社長には見習う点が多いですよ。

NAMCO-ICON

『遠藤雅伸』の年表(1981年~85年-ナムコ時代)

出来事
1981年 4月 ナムコに入社、4月~9月新人研修
1982年 6-7月 AC版『ゼビウス』制作開始
1983年 7月 AC版『ゼビウス』発表
1984年 1月 AC版『ドルアーガの塔』制作開始
7月 AC版『ドルアーガの塔』発表
11月 FC版『ゼビウス』の発売
超難易度『スーパーゼビウス』の発表
1985年 『ナムコ』を退職後、独立して、株式会社『ゲームスタジオ』を設立
1986年 7月 AC版『イシターの復活(ドルアーガの塔シリーズ)』発表
1988年 7月 FC版『カイの冒険(ドルアーガの塔シリーズ)』発売
1991年 『小説 ゼビウス ファードラウトサーガ』発行
1994年 3月 SFC版『ザ・ブルークリスタルロッド(ドルアーガの塔シリーズ)』
2005年 9月 『小説 ゼビウス ファードラウトサーガ』再販

『遠藤雅伸』さんの証言集

なぜ『ナムコ』に入社したの?

なぜ『ナムコ』に入社したの?

遠藤
遠藤

元々は「総合芸術」がやりたかったというのが出発点ですね。

 

高校では『演劇』をやり、大学では『映画』を撮っていたんです。

 

ただ当時は『映画』や『演劇』ではまだとても食えない時代だったんですね。

そこで初めは『テレビのフィルム部門』に進もうと思ったのですが、

それがうまくいかず、

次にやってみようと思ったのがゲームでした。

NAMCO-ICON

遠藤さんが退職した理由?

遠藤
遠藤

ボク自身が、『自分の作風』とアーケードという
営業形態のギャップに悩んでいて、

『ドルアーガの塔』以降『アーケードゲーム』を作らなくなってしまいました。

大作ゲームについて

遠藤さんは、『大作ゲーム』は作らないの?

遠藤
遠藤

私は、『映画』や『演劇』など『総合芸術』が、

 

全部を1人の人間が作りきれない規模になっているのを嫌って、

『ビデオゲーム』の世界に入りました。

 

自分で全体が見えない『大作』というのは、

本質的に馴染まないんでしょうね。

今回はここまで
ご閲覧ありがとうございました。

『ゼビウス』『ドルアーガの塔』の生みの親『遠藤雅伸』の世界リンク集

ゼビウス、ドルアーガの塔を生んだ、ナムコサウンドの魅力
ゼビウス、ドルアーガの塔の誕生までの道、~ナムコサウンドの系譜~
ゼビウス、ディグダグサウンドの生みの親、慶野由利子~ナムコサウンド・音楽の魅力~
【ゲーム音楽】最終回ゼビウス・ディグダグ・サウンドの生みの親、慶野由利子~ナムコサウンド・音楽の魅力~
【ゲーム音楽】第3回ナムコの波形メモリ音源の系譜~ゼビウス・ディグダグ・サウンドの生みの親、慶野由利子~
【ゲーム音楽】第2回ゼビウスサウンドの登場、ディグダグ・サウンドの生みの親、慶野由利子~ナムコ音楽の魅力~
【ゲーム音楽】第1回ゼビウス・ディグダグ・サウンドの生みの親、慶野由利子-ナムコの波形メモリ音源
【ゲーム音楽】最終回・ドルアーガの塔のイシターのテーマ誕生~ゼビウス、ドルアーガの塔の誕生秘話、ナムコサウンドの系譜~
【ゲーム音楽】第3回ナムコサウンドの系譜、大野木宣幸、慶野由利子、小沢純子~ゼビウス、ドルアーガの塔の誕生秘話~
【ゲーム音楽】第2回名作シューティング・ゼビウス、ゲーム音楽の登場
タイトルとURLをコピーしました