『ファミコン誕生』前史、もうひとつの家庭用ゲーム機・黄金時代
~ファミコン誕生前史~
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今回は
『ファミコン誕生』前史、もうひとつの家庭用ゲーム機・黄金時代
をご紹介します。
知っているだろうか
『ファミコン』が発売される前の10年間に『家庭用TVゲーム』の『黄金時代』があったことを・・・
この頃の憧れのゲームはやはり『アーケードゲーム』。
しかし、『アーケードゲーム』で遊ぶには、こわいお兄さんも屯する地『ゲームセンター』出かけなければならい、
それは、子供達には敷居の高い聖地であった。(親にも怒られる)
そんな『ゲームセンター』に行かなくても遊べるゲーム、
それが『家庭用ゲーム』であった。
しかも時間は無制限。
原っぱで野球や友達の家で『ボードゲーム』で遊んでいた少年たちが、『コンピューター』という未来と初めて出会ったのだ。
ここで『家庭用TVゲーム』の歴史を振り返ってみよう。
1970年代、群雄割拠の『家庭用ゲーム機』時代
世界初の家庭用ゲーム機の誕生
世界初の『家庭用TVゲーム機』が発売されたのは1972年、
それは、アメリカ地から誕生した『マグナボックス社』の『オデッセイ』だよ。
まだ、CPUは載しておらず『アナログ回路』による『電子ゲーム機』であり、
この頃には既に『ファミコン』の原型となる、
『カートリッジ』の差し替えて『ゲーム』を楽しめる方式が生まれていたのだよ。
ビデオゲームの先駆者『アタリ社』の家庭用ゲーム機参入
『オデッセイ』に刺激を受けた、『ビデオゲーム』の雄『アタリ社』は、
1974年に『ゲームセンター』でのヒット作『PONG』の『家庭用版』を発売するんだ。
1976年には『ブレイクアウト』(ブロック周し)を発表しているよ。
その後、アタリ社は、
1977年に『Atari 2600』発売し、3,000万台以上も出荷されるんだ、
そして、『Atari 2600』は、アメリカ家庭用ゲーム機の『デファクトスタンダード』になるのだよ。
1975年、国内初の本格的『家庭用ゲーム機』の誕生
一方の日本でも、国内初の本格的『家庭用ゲーム機』が発売されるんだ。
日本のおもちゃメーカーの『エボック社』は、
1975年にアメリカの『マグナボックス社』と技術提携し
『テレビテニス』を発売するんだ。
発売した1975年9月から翌年1月までに約5千台出荷され、
価格は、国家公務員初任給が80500円の時代に19500円。
新し物好きのお父さんが買ってきても、ゲームが単純で画面が安定しなかったため、
3日もすると子供たちは飽きてしまったのよね。
だが1970年代半ばになると、
アーケードゲーム業界の雄『セガ』や『タイトー』が
『アタリ社』の「PONG』を輸入販売するなど、
さまざまなメーカーが類似のゲーム機ビジネスに参入し始めたのだ。
1977年の家庭用ゲーム機
『任天堂』初の家庭用ゲーム機の登場
そんな中、1977年に『家庭用ゲーム機』では後発だった『任天堂』は、
『テレビゲーム15』と廉価版の『テレビゲーム6』を発売するんだ。
それまでの『モノクロ』画面から『カラー』のゲーム機として人気を得たのだよ。
実は『テレビゲーム15』と『テレビゲーム6』は、内部構造は同じだったんだけど、『6』は、9つのゲームスイッチを省いて、赤字覚悟の9800円で販売していた。
『任天堂』の『山内社長』は、
9800円の『テレビゲーム6』が売れると、予想してんだけど、
予想に反して、上位機種である『15000円』の『テレビゲーム15』の方が圧倒的に売れたんだよ。
実は、この『任天堂』初の家庭用ゲーム機が、
後の『ファミコン』開発に生きてくるとは、当時予想もつかなったよね。
『ファミコン』の価格が、14800円だったのも
この時の経験から『家庭用ゲーム機』の値段を決めたんだよ。
任天堂初の家庭用ゲーム機誕生については、
別ページで公開していますので、ご興味のある方は、是非参照下さい。
1977年『任天堂』に対抗して、エポック社『システム10M2』が発売
同年、1977年に『エポック社』から『システム10M2』が発売されるんだ。
価格は、『任天堂』の『テレビゲーム15』と同価格の15000円。
『テレビゲーム15』に対抗してゲームを10種類に増やし、大型の専用銃を使った射撃ゲームが遊べたよ。
ただこの『専用銃』は光を検知する仕組みだったため、
遊ぶときは部屋を暗くしなければならず、蛍光灯に向けて撃つだけで命中と判定されてしまったんだよ。
1978年発売の家庭用ゲーム機
1970年代末頃になると、次々と『家庭用テレビゲーム』が登場し始めるんだ。
『任天堂』の技術者を育てた『レーシング112』
1978年には『任天堂』の『家庭用ゲーム機』の第2弾として
『レーシング112』を発売するんだ。
価格は、本体が12800円とACアダプターが1500円。
このゲーム機は、直径18cmのハンドルと、2速のシフトレバーで本格的なレースが楽しめて、
敵の進路変更や悪路、車の出現台数やコースの広さなど難易度が設定できたよ。
『レーシング112』は、
後に『ファミコン』を開発する『任天堂』の『開発2部』が、
はじめて自社内で電子設計を行った、ゲーム機なんだ。
『任天堂・開発2部』は、
この頃の『家庭用ゲーム機』の開発経験から
『ファミコン』を制作するためのノウハウを蓄積してゆくんだよ。
1978年 高級家庭用ゲーム機『TV JACK スーパービジョン8000』の登場
その中で『バンダイ』から、
表現力豊かなグラフィック機能と迫力のサウンドを実現した
『TV JACK スーパービジョン8000』を発売するだ。
価格は、なんと59800円。
このゲーム機は、1970年代の国産家庭ゲーム機の最高の高性能機だよ。
価格が高すぎて、あえなく撃沈される。
1979年発売の家庭用ゲーム機
1979年エポック社、『テレビ野球ゲーム』を発売
『野球盤ゲーム』のノウハウを持つ『エボック社』と『NEC』がタッグを組んで発売したのが『テレビ野球ゲーム』だよ。
この頃、『野球盤ゲーム』が流行っていたよね。
友達の家でよく遊んだね。
三振狙う時は、よく消える魔球を使ったものだ。
あの『宮本茂』がデザインした『ブロック崩し』登場
同年の1979年に『任天堂』は、
『アタリ社』の『ブレイクアウト』のコピーである『ブロック崩し』を発売するんだ。
そして、この『ブロック崩し』の外観デザインをしたのが、
後に、『スーパーマリオ』『ゼルダの伝説』などの
『ゲームデザイナー』として有名になる『宮本茂』さんだよ。
この頃の『宮本』(1977年入社)さんは、
工業デザイナーとして、ゲーム機の『パッケージデザイン』などをしていた頃なんだ。
『ゲーム機』の発展と共に、
『ゲーム』をデザインする『ゲームクリエイター』が必要な時代がやってくるのだ。
この頃『任天堂』の『開発2部』は、
『アーケードゲーム』にも進出するんだよ。
そして、『スペースインベーダー』(タイトー)や『ギャラクシアン』(ナムコ)の影響を受けて、
『アーケードゲーム機』の『スペースフィーバー』『レーダースコープ』を開発することになるんだ。
そして、この『アーケードゲーム』の開発経験も
『ファミコン』制作に生かされることになるんだよ。
1980年の家庭用ゲーム機
任天堂を救った『ゲーム&ウォッチ』の誕生
1970年代末期から1980年代はじめには、高価格・高機能なゲーム機が登場していたんだ。
そんな流れの中、
1980年4月には、『任天堂』から『コンピューターTVゲーム』が発売されるんだ。
この頃は『任天堂』は、
なかなかヒット商品に恵まれず、巨額の借金を抱えて会社が傾きかけていたのだ。
そんな、1984年の4月の同時期に発売されたのが、
画期的な携帯用ゲーム機『ゲーム&ウォッチ』なんだ。
『ゲーム&ウォッチ』を開発したのは、
あの『横井軍平』さんが率いる『任天堂・開発第1部』だよ。
『ゲーム&ウォッチ』はシリーズ化され、
全世界で4800万台を出荷する『大ヒット商品』になるの。
『ゲームウォッチ』の大ヒットのおかげで『任天堂』は、
70億円の借金を完済した上、40億円の黒字の優良企業に大変身するんだ。
そして、1981年11月『任天堂』の『山内社長』は、
『ゲーム&ウォッチ』で得た資金を基に、
『家庭用ゲーム機・ファミリーコンピュータ』(ファミコン)の開発を着手することになるんだ。
まさに『ゲーム&ウォッチ』が誕生したからこその
『ファミコン』が生まれたんですね。
横井軍平さんの『ゲームウォッチ』誕生物語を
別ページに掲載していますので、ご興味のある方是非ご参照下さい。
1980年『テレビベーダー』(エポック社)
同年、1980年に『エポック社』から『テレビベーダー』が発売されているよ。
このゲーム機は、『インベーダーブーム』から1年後に発売された『家庭用インベーダー専用機』だよ。
『ブーム』を当て込んで50万台以上の強気な販売計画が立てられたが、
『ゲーム&ウォッチ』と『インベーダー』の後発ゲーム『ギャラクシアン』(ナムコ)に後塵を拝してしまった。
1981年、1982年の家庭用ゲーム機
1981年、大ヒット家庭用ゲーム機『カセットビジョン』の登場
1981年には『エポック社』から、
『ゲームカートリッジ』に『1チップマイコン』を内蔵した『カセットビジョン』を発表するんだ。
『カートリッジ』を交換すれば他のゲームを楽しめる方式で、
2万円以下という低価格、
更に『エボック社』のこれまでの人気タイトルなどを移植したため、
『ファミコン』登場以前の日本の『据え置き型ゲーム機』でトップシェアを占める人気ゲーム機になるんだ。
なんと『カセットビジョン』広告には、
当時人気の巨人の4番『原辰徳』選手がー。
原さん若いねー。
この後、世界初の家庭用テレビゲーム機『オデッセイ』の後継機『オデッセイ2」(KTTE社、1981年)、
『インテレビジョン』(マテル社、1982年)などが発売されるんだよ。
1981年から1983年頃は、『海外家庭用ゲーム機』の日本市場参入の年でもあったのだ。
1983年の家庭用ゲーム機
1983年 ミステリーなゲーム機『アルカディア』(バンダイ)
ライセンス元が不明だが、世界中で同じシステムの互換機が30以上も販売されるというミステリーなゲーム機が登場する、
それが1983年に、バンダイから発売された『アルカディア』だ。
『ファミコン』が発売されると9800円に下げしたが、
苦戦。この失敗のせいで『バンダイ』は一時『家庭用ゲーム機市場』から撤退することになる。
家庭用ゲーム機市場を切り開いた『ファミコン』の誕生
そしていよいよ、1983年7月15日に
『ファミリーコンピューター』(ファミコン)が発売されるよ。
そして、同日に発売されたのが
アーケードゲーム業界の雄『セガ』が送り出した『セガSG-1000』だよ。
この時から、『任天堂』VS『セガ』の
長い『家庭用ゲーム戦争』の幕開けとなるのだー。
セガVS任天堂の『家庭用ゲーム戦争』については、
別ページに掲載していますので、ご興味のある方は是非ご参照下さい。
その後『エポック社』も1984年『スーパーカセットビジョン』を発売するんだけど
同年の1984年には、『ファミコン』初となる
『サードパーティ』として『ハドソン』が参入、
その後、大手ゲームメーカーが次々と『ファミコン』参入し、
『ハドソン』のファミコン参入についても、
『ハドソン』の創業から『ファミコン』参入までの物語を
別ページに掲載しておりますので、ご興味のある方は是非ご参照下さい。
『ファミコン』は、
1983年 から1994年までの間にゲームタイトル数『1053本』
参入、ゲームメーカーは、『103社』と圧倒的な人気で
1980年代の家庭用ゲーム機業界に君臨することになるんだ。
今回はここまで
次回は、
ファミコンの始まり・任天堂初の家庭用ゲーム機発売 をご紹介します。
ご閲覧ありがとうございました。
トゥットゥルー♪