第5回【最終章】1987年から90年のファミコン時代
~懐かしいファミコン、1983年から1990年代記~
今回は
第5回【最終章】1987年から90年のファミコン時代
~懐かしいファミコン、あの1980年代~ をご紹介します。
1987年『ドラクエII』と出版社との対立
1987年2月『ドラクエII』の攻略記事掲載は違法の判決が出る
『エニックス』が、
『雑誌にゲームの謎解きを勝手に掲載するのは著作権違反』などとして
出版社を相手取り『ファミコン雑誌』の発行差止めを求めた仮処分申請で、
東京地裁は、『エニックス』の主張を認め、雑誌の発売禁止を決定した。
これはある『ゲーム雑誌』が、
『ドラクエII』の謎解きを無断で、11ページ掲載した上、更にに次号でその続きを載せようとしたもの。
どこまで公開するかしないかのバランスは、
ゲームを攻略する上で大事なこととは思うんだけど、裁判にまでなってしまったことから
『ファミコン』当時いかに重要な産業だったのかが分かる出来事ね。
ちなみに、『エニックス』と裁判で争ったのは、
ゲーム専門誌の『ハイスコア』を発行していた
『ハイスコアメディアワークス社』だよ。
『ハイスコア』の1987年3月号で
『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』の序盤の『謎解き』と全篇の写真を掲載した問題で『エニックス』によって裁判を起こされたことが話題になったんだ。
いろいろ話題になった『ハイスコア』だが、
残念ながら1990年4月号で休刊になってしまう。
無念・・・・
懐かしい『ファミコン雑誌』について、別ページで公開していますので
ご興味のある方は、是非ご参照下さい。
1987年3月『任天堂』、『野村證券』と提携交渉へ
この時点で1000万台近く普及していた『ファミコン』を
情報端末機として利用する試みが本格的に始まり、
証券情報の分野で『任天堂』が『野村證券』と提携交渉に入ったことが報じられている。
その後、1989年に株取引の『ホームトレードサービス』が開始されることになるよ。
1987年3月ファミリートレーナー全盛期
1986年に、マットをコントローラーとして使う『ファミリートレーナー』発売されたよ。
発売当時は、専用ソフトは10本発売されていて、
1987年は、更に専用ソフトが6本発売され盛り上がりを見せたんだ。
当時の人気番組『風雲たけし城』(TBS系列)が
ファミコンゲーム『突撃!風雲たけし城』(バンダイ)で登場し
番組のゲームが体験できるとあって人気となったよ。
2008年には、Wii用として『ファミリートレーナー』が復活。
全世界で100万本以上を売り上げを記録することになるんだ。
1988年 『ドラクエIII』ブーム
1988年2月『ドラクエIII』に長蛇の列
『ファミコン』で長蛇の列といえば『ドラゴンクエストIII』。
当時、ニュースなどでもよく取り上げられたよね。
『ドラゴンクエスト』の生みの親である『堀井雄二』もキャスターのインタビューに応え得ていたよ。
『東京都教育委員会』は、
各小中学校に『学校を休んで買いに行かないように』と異例の通達を発令、
でも、発売日に東京都内だけで三十数人が、『警視庁』に補導されてることに・・・
また『ドラクエIII』と在庫ソフトの抱き合わせ販売も問題視されはじめ、『公正取引委員会』が調査を始めた。
と当時に新聞に掲載されていました。
この頃の、『ドラクエIII』熱はすごかったね。
とにかく売り切れ続出で、学校で『ドラクエIII』を手に入れられたのは数名だったよ。
『ドラクエI』『ドラクエII』と正当進化の後だったからな、
日本中が『ドラクエIII』の期待で埋め尽くされた、1988年であった。
『ドラクエIII』は、
日本中を熱狂に巻き込んだことに頷けるその完成度の高さには、現在においても目を見張るものがある。
まさに、名作の名に相応しい一作であった。
1988年7月『ファミコン』の価格急降下量販店で1万円割る
『ドラクエIII』熱がようやく冷め始めた頃、
『ファミコン』の価格が下がりはじめたのだ。
標準小売価格は14800円だが、
東京・秋葉原や大阪・日本橋では9800円が相場になり、
『ディスカウントストア』では9000円前後で販売され始めた『ファミコン』。
本来のゲーム機としての需要が一巡し、売れ行きが落ちてきたためと当時の新聞に掲載され、
『値引きしなくても売れるという流道葉界の『ファミコン』神話が発売5年で閉れてきた』
というショックな記述も。
この頃には、『ファミコン』に関する新聞記事の量も徐々に減少の傾向に・・・
1989年 ファミコンブームの終焉
1989年2月『ファミコン・ブーム』沈静化
1986年のソフトの販売本数は5000万本たったのが、
1988年は3000万本程度に落ち始め、半導体の不足から人気商品も思うように供給できないことから
『ファミコン』ブーム沈静化も言われ始める。
さらに1989年夏に発売が予定されていた『スーパーファミコン』(後に延期され1990年11月発売)を前に『ファミコン』の買い控えも進んでいると当時の新聞記事に掲載された。
『ドラゴンクエストIII』が発売された、1988年の後半から
『ファミコン本体』の価格が下がり始め、『ファミコン・ブーム』も沈静化しはじめるんだ。
流石に、1980年代末頃になると
『メガドライブ』(セガ)『PCエンジン』(NEC)が登場し、
性能では、ライバルメーカーからに劣勢に立たされてしまった頃、
後継機種の『スーパーファミコン』の期待からもそろそろ
『ファミコン』に終焉の時が・・・
1989年2月『ファミコン』通信急成長ホームトレードサービス利用5万人超え
『ファミコン』を通信端末として用いる情報サービスが拡大。
『野村』『山一』『日興』『大和』の四大証券などが始めた『ホームトレードサービス』の利用者が5万人を超えたことがニュースになっています。
まだサービスが始まって半年しか経っていないのにこの増え方は相当なものと当時の新聞記事。
1989年8月『ジャレコ』『ポップコーン』の自動販売機発売
何を血迷ったのか『ジャレコ』が自社の人気キャラクター『じゃじゃ丸』をモデルに
自動販売機『じゃじゃ丸・ポップコーン』を販売した。
自販機には『ポップコーン』専用の高速電子レンジを内蔵しており、約40秒で調理が完了。
調理中は『じゃじゃ丸』の目玉が動いたり、喋ったりして楽しませる機能も搭載しているよ。本体価格は138万円。
その後の『ジャレコ』を暗示するような迷走っぷりだな・・・
『ファミコンゲーム』でいろいろ楽しませてれた『ジャレコ』も紆余曲折ありながら、結局、2014年5月に親会社である『ゲームヤロウ破産』に伴い、名実ともに消滅してしまった。
1990年『スーパーファミコン』発売
1990年11月『スーパーファミコン』発売
1990年11月、期待の次世代機『スーパーファミコン』が発売されたよ。
ここから徐々に新作ゲームは『スーパーファミコン』でリリースされるようになるよ。
『スーパーファミコン』の登場により、
『ファミコン』は徐々に表舞台から姿を消すことなるのだ。
しかし、次世代ゲーム機が登場した後も『ゲームタイトル』は発売され続け
1990年は、157本
1991年は 、151本
1992年は 、95本
1993年は 、52本
そして『ファミコン』のゲームタイトル発売の最後の年となるのが1994年(7本)であった。
ちなみに『ファミコン』最後のソフトは、1994年6月発売の『高橋名人の冒険島』だったよ。
『ファミコン』の最終出荷台数は、日本国内で約1,935万台、海外で約4,356万台も出荷されたんだよ。
そして後継機種の『スーパーファミコン』も、世界中で爆発的な人気に
日本での出荷台数約1717万台、日本以外で約3193万台に達したよ。
2003年9月『ファミリーコンピュータ』と『スーパーファミコン』の製造終了
実は、『ファミリーコンピュータ』と『スーパーファミコン』は。
2000年代まで製造されていたのだ。
だが『任天堂』は、
顧客の要望に応じて『ファミリーコンピュータ』と『スーパーファミコン』を、ごく少量に受注生産し続けていたが、2003年9月ついに両機種の製造を打ち切ることを決定した。
1983年のファミコンの発売以来、20年にわたって、
日本のみならず世界中のあらゆるジャンルに影響を与え続けたプラットフォームが、
今まさにその役目を終えたのだ。
『家庭用ゲーム市場』という巨大な市場を作り上げ、多くの子供たちをワクワクさせてくれた
『ファミコン』の終焉にはやはり感慨深いモノがあるな・・・
ありがとう
『ファミリーコンピュータ』『スーパーファミコン』
今回はここまで
次回は、
第1回 スーパーファミコンの誕生
~懐かしいスーパーファミコンの時代~をご紹介させて頂きます。
ご視聴ありがとうございました。