NEC、パソコン帝国の誕生、
~PC8001 PC8800 PC9800の系譜~
ご閲覧ありがとうございます。
今回は日本で最も普及し後に国民機とまで呼ばれるようになる、PC-9800シリーズを生み出した、日本電気のパソコン帝国の誕生についてご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
これからのトップはマイコン(パーソナルコンピュータ)ぐらい自由自在に操作できなければダメだ
という日本電気の会長である小林宏治さんの鶴の一声のもと、
幹部全員を対象にしたマイコン勉強会がスタートすることになるんだ。
更にこの組織のトップは、
これを機にマイコン革命の推進者とする日本電気は、
全社を挙げマイコンを使いこなすビジネスマンを養成する教育運動を展開していく。
と関本忠弘社長をはじめとする全役員そして事業部長を合わせた300人に呼びかけ
このマイコン勉強会が毎週土曜と日曜日に開かれることになったんだ。
1回に20人ずつが休みを返上し勉強会への出席を義務付けられ、
朝の9時から夕方の5時まで東京港区の芝にある日電第二別館十階の研修室に缶詰めになり講義を受けることに、
そしてパーソナルコンピュータのPC-8001が一人に一台あてがわれ、
マイコンの使い方やBASIC言語によるプログラム作成、ゴルフゲーム、そして英文のワードプロセッサ実習と盛り沢山の一日入門コースをこなすことに
この教育カリキュラムを担当する笹原正隆教育訓練部長によれば、
社内にはマイコンの権威が大勢おりますし、それに会長や社長が生徒では社員もやりにくいだろうと、
講師には日本情報研究センターの女性インストラクター二人にお願いしております。
と語っている。マイコン入門(廣済堂出版)の著者でありミスター半導体とも言われる大内淳義副社長や、
日本のコンピュータ研究開発の草分けでソフトウエア技術の第一人者である水野幸男取締役も
この勉強会で若い女性講師にマイコンの動かし方やプログラムの作り方といった実技指導を受けることに
中には一度もマイコンに触ったこともない幹部もいるということで、事前に手渡されたマイコン入門テキストを片手に
予習に取り組む幹部たちの姿も、本社内でしばし見られる光景になっていたのである。
小林会長は
C&C(コンピュータとコミュニケーション=通信の融合)戦略にマイコンは不可欠なもの。
マイコンの持つ無限の能力を知るためには、まず自分でキーボードを叩き、マイコンを動かしてみることが必要である
というこのトップダウンは、来年度からは部課長クラスにも実施され、
マイコンの操縦法をマスターし、プログラムを組むことは、これからの日本電気社員の必須の条件になりつつあったのだ。
80年12月9日付けの日本経済新聞では
マイコン革命、まず幹部から
と題された記事が掲載されるなど、日本電気は会社を上げ、パーソナルコンピュータの普及に躍進することになるんだ。
更に会長は日本電気にパーソナルコンピュータという種を芽生えさせたPC-8001チームにも、次なる一手を下そうとしていた。
そうそれは会長がアメリカの出張を終え間もなくこと
小林さんは、長年かわいがってきた大内副社長を会長室へ呼び出し、
こう切り出したのである、
大内君、PC-8001とかいうやつは、君が勝手にやってるらしいね
と小林さんは、ニヤつきながら大内さんに声をかけた。
うーんしかるべき書類も提出し、あのマシンの製品化についてはさんざん説明してきたはずなのに・・・
どうやらこれまで超多忙を極める会長の頭には
情報部隊までは目が行き届いても、マイコンまでは入っていなかったらしい。
と大内はふと思いながら。
そう発売以降予想を大きく上回り売れ始めたにもかかわらずPC-8001(パーソナルコンピューター)は、すぐに社内で認知されたわけではないのだ。
なにせあのマシンを生み出したのは、電子デバイス事業部の一セクションにすぎないマイコン販売部、
部下たちが内職で開発した、パーソナルコンピュータにはまだまだオモチャのマシンという意識がついてまわっていたからな。
そう数ヶ月前に展示会に出店した時も・・・
招待客にPC-8001の説明を手ぐすねひいた部下たちの前を取引先を連れた営業部員が・・・
日本電気さん、このパーソナルコンピュータのPC-8001とは何だね?
あのーこちらの商品はお客様の求められているコンピュータではなく”只のオモチャ“ですから。あちらに本物の製品がございますのでご紹介させて頂きます。
と素通りさせられ、渡辺たちが悔しがることも一度や二度ではなかった
そう日本電気内でのパーソナルコンピュータに対する認識は、依然はその程度のものである。
しかし日本電気のトップである会長のアメリカ出張での出来事からすべてが変わり、
そして小林会長は自らの唱える理念のもと、主役ともなりかねない存在としてパーソナルコンピュータを位置づけたのである。
これまでもちゃんと報告してきたのにな
と内心でぼやく大内に会長は追いうちをかけるように。
それにしても、君らしくもないじゃないか
いつまでまでも逃げ腰で事業を続けているなんて
なあ、お前の若い頃はもっととがっていたぞ
・・・
やはり会長にはかなわぬ。
そして大内は兜を脱いだ。
PC-8001の出足が予想に反して好調とはいえ、我社はまったくもって不得意とする民需製品、何処に危険があるか分からない。
へたに先走ってパソコン部隊を独立させ、一人歩きしたとたん落とし穴にでもはまったら責任の取りようがない。
それにそんなことにでもなれば、先走り傾向の強いマイコン販売部の部下たちに、大きな傷を負わせることになる。
出足好調とはいえパソコン部隊はあくまで半導体と込にしておき、たとえ赤字を出しても好調な半導体で吸収する
という腹で固めていたのである。
うーん、しかしどうやら会長にはすっかり見抜かれているらしい。
なあ、大内くん
はい。
こりゃあそろそろ、君たちの部下たちを事業部に格上げして、逃げられないようにした方がいいんじゃないか?
と会長のだめを押しがきたのである。
こうして80年4月、パソコン部隊はデバイスグループ内に新設された事業部に移ることになるんだ。
但しただしこの時はまだ、パソコン部隊を完全に独立させてはいなかったんだ。
そう会長からの押しにも、大内さんは少し防波堤を敷いたのである。
新設された事業部の名は、マイクロコンピュータ応用事業部となり、
担当はパーソナルコンピュータだけでなくマイクロコンピュータの利用分野一般とし
こうして正式にパーソナルコンピュータ事業部が設立されたんだ。
このパソコン部隊が完全な独立を遂げ社内で認知され始めるのは、それより更に1年後の81年4月のこと
そうあのPC-8001の発売から約1年半、そしてTK-80の発売からは4年8か月後のことである。
日本電気の電算の本流、パソコンに名乗りを上げる
幹部相手のパソコン研修の開催を指示し、デバイス事業部の統括に担当セクションの独立を促した丁度その頃、
会長はもう一手、ある事業部への布石を打っていた。
それは電算の本流、情報処理事業の担当役員である石井善昭さんに対しコマを動かしたのである。
そして小林さんはこの役員にこう声をかけたんだ。
石井君、情報処理部隊はパソコンをどうするつもりなんだ?
このまま半導体部門に任せておくのか?
突然の会長からの言葉に
石井さんからはとっさに”いえ”という打ち消す言葉が口をついて出たのである。
そう答えたとたん、この電算部隊を引率する役員の脳裏には部下からの報告の言葉が重なりあうように響きはじめていた。
石井はアメリカ市場でのオフコン売り込みの苦戦の日々と、その部下からの現況報告を思い出したのである。
その部下はアメリカ市場へのオフィスコンピュータの売り込みにあたり、
日本電気の製品が立ち上がりのきっかけをつかめないでいるうちに、小規模なビジネス現場にもパーソナルコンピュータが急速に切り開きはじめているというのだ。
オフコンよりもさらに下位のマシンがアメリカ市場では我社の行く手を阻んでいます、
既にこのパーソナルコンピュータは16ビット化され、機能と速度を大幅に高めたものが現われてきており、
現在は8ビットのみのパーソナルコンピュータが早晩16ビット化され、より強力なマシンに化けることに疑問の余地はありません。
この動きがいずれ日本にも及ぶとすれば、情報処理事業部にとって虎の子のオフィスコンピュータが脅かされる可能性が十分考えられます。
こうした事態に備えるためにも、我々も更に小型化と低価格化を推し進めた製品を用意する必要があります。
会長、我々情報処理事業としても、
もちろんちゃんとやっていくつもりです。
耳の奥でこだまし続ける部下からの報告をなぞりながら、石井は会長からの問いにそう言葉を継いだのだ。
コンピュータ事業への参入に断を下し、延々と悪戦苦闘を続けるこの事業部にそれでも確信を抱き続けてきた小林は、
無言のまま一つ大きく頷き。
このリーダーの言葉を受けとめたである。
コンピュータ事業で散々苦労し、この業界の本質を骨身に染みて理解してきたのは我々だ。
経験、人材、生産設備、どれをとっても圧倒的な力を持つ情報部隊が半導体部門に足下をすくわれるわけにはいかない
日本電気のコンピュータ事業の立ち上げからこれに携わり、部隊の方向付けにも深くかかわり続けてきた石井には本家としての強い誇りと自負があったのだ。
情報処理グループがコンピュータ事業のすべての領域をになうことは、石井には当然すぎるほど当然に思えたのである。
従来の超小型機であるオフコンの更に下位に生まれつつある、パーソナルコンピュータがおもちゃで片付けられないとすれば、
我々は当然その分野にも対抗出来る製品を用意する。
半導体の余技に、足下をすくわれるわけにはいかない。
アメリカで起こりつつある、地殻変動に関する部下からの報告と、
小林会長の
どうするのだ
との一言は、足下を洗いはじめた小さな波を見守ってきた石井の背を押したのである。
当然我々情報処理事業部はパーソナルコンピュータを開発する
電算事業部のトップは、そう決意したのだ。
ではパーソナルコンピュータとは果たして何なのか。
本家のコンピュータ部隊はこれ以降このあらたな問いと向き合うことになるんだ。
今回はここまで
いよいよPC-9800シリーズを生み出すことになる、情報処理部隊が動き出す、
しかしこの事業部が後に国民機とも言われる、PC-98シリーズをこの時から直ぐに、創造できた訳ではなかったんだ。
パーソナルコンピュータとは果たして何なのか。
その答えを求めて悪戦苦闘の末
この名機の誕生には情報処理部隊の苦い経験と渡辺さんたちが開発したPC-8001の影響を強く受けたことから、ようやく生まれることになるんだ。
ということで次回は、日本電気という大組織の中でお荷物事業と言われ続けた情報処理部隊の成り立ちから、
パーソナルコンピュータ開発までの道のりをご紹介させて頂きます。
ご閲覧ありがとうございました