【PC98物語#5】PC98の誕生までの道のり、パーソナルコンピューターとは何か?
~PC8001 PC8800 PC9800の系譜~

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今回は、日本電気の情報処理事業から生まれた
PC9801(パーソナルコンピュータ)誕生までの道のりをご紹介させて頂きます。

Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。

いよいよPC-9800シリーズを生み出すことになる電算部隊が動き出す。
しかしこの事業部が後に国民機とも言われる、PC-98シリーズをこの時から直ぐに、創造できた訳ではなかったんだ。
パーソナルコンピュータとは果たして何なのか。
これまでの仕事の流儀から踏み出すことが出来ず、答えを求め悪戦苦闘の模索の中、
そんな時海の向こうのアメリカでは、コンピューター業界に大きな変革を起こす出来事が起きていた。

81年初頭、NECのパーソナルコンピュータ事業の将来を決定する御前会議が開催され、
その後日本電気グループは、三つの柱を据えパーソナルコンピュータ事業に取り組むことになるんだ。
一つは、子会社の新日本電気が担う家庭用の8ビットの低価格マシン(PC-6001シリーズ)。
二つ目が、コンピュータの専門部隊である情報処理事業が新たに取り組む16ビットの事務用コンピュータ。
そして三つ目が、これまでこの分野を切り開いてきたデバイス事業が、両者の中間的な機種を従来の製品の延長上に展開してゆくこと(PC-8000、PC-8800シリーズ)。
この新体制の発足と同時に情報処理事業に所属し、後に初代PC-9801の生みの親となる浜田俊三さんは
パーソナルコンピュータとは果たして何なのか。
との問いへの答えを携え、日本電気のパーソナルコンピューターを育ててきた、渡辺さんと向かい合うことになるんだ。

トップの示した方向付けに基づき、コンピューター部隊では二つの開発計画が進行しつつあり、
この二つの流れを整理するため、情報処理企画室の浜田さんを中心に、これまでこの分野を切り開いてきた渡辺和也さんを加えて
ビジネス用パーソナルコンピューターの検討プロジェクトが組織されたんだ。
しかし情報部隊から二つのプランを示された渡辺は、あらためて上司の大内の下した決断を呪ったのである。

こんなものがパーソナルコンピューターとして受け入れられる訳がない

と新機種の概要を示したレジュメをざっと目で追い、彼は即座にそう判断した。
情報処理部隊のレジュメによると
第一計画は、端末担当チームによるインテリジェント端末の低価格マシンだと言う。
かつてN6300(オフコン・ワークステーション)と名付られ、日本電気で初めてマイクロプロセッサマシンを生み出したこのチームは、
それをいっそう高機能化し、同時に低価格化した後継機の開発を進めていたんだ。
16ビットのマイクロコンピューターにはインテルの8086が搭載され、OSはPTOSと名付けられた専用のものを用意し、
従来の製品よりも小型化と低価格化を推し進めパーソナル化を実現し、オフィスの作業効率をいっそう高めることが出来るという。

更に大型コンピューターで主に事務処理に使われてきたCOBOLに加え、表計算ソフトも簡易言語として用意しており、
パーソナルコンピューターで広く普及しているBasicも利用出来るように考慮されていると言う。
このチームは、こうした仕様に基づき既に開発を始めていた端末(N6300)の後継機を、情報処理事業のパーソナルコンピューターの候補として押してきたのである。

一方かつて浜田が推進役となり立ち上げたオフィスコンピューターチームからは、
これも自らの領域のマシンをよりいっそう小型化と低価格化させるというプランを提案してきたのである。
あらかじめ様々なアプリケーションをメーカー側が用意し、
製品の販売にあたるディーラーがユーザーの細かな注文に応じてソフトウエアを誂えるという、手取り足取りの流儀で市場を開拓してきた従来の流れに沿い、
このマシンではこれまで積み重ねてきた、プログラム資産を売り物にしようと考えていたんだ。

CPUには、日本電気オリジナルのμCOM1600を採用し、
従来日本電気のオフコンのために書きためられてきたソフトウエアをそのまま使えるようにする。
更にパーソナルコンピューターの流れに対応するため、従来の言語に加えBasicの利用にも道を開く、
オフィスコンピューターチームも従来のマシンを更にさらに小型化し机に載せたものを、パーソナルコンピューターと呼ぼうと考えていたのである。

今まで法人向けに発売してきた端末の高機能版とオフコンの小型版という、情報処理部隊が示したこの二つのパーソナルコンピューターのイメージに
渡辺和也は深く沈み込むような、疲労と違和感を覚えていた。

確かにこの2つのマシンは共に16ビットのCPUを採用し、小型で低価格な高機能なマシンではある・・・
だがこの電算のプランはパーソナルコンピューターをパーソナルコンピューターたらしめている核心を見落としている。

個人用コンピューターを取り巻く空気の基調は、あくまで共棲である。
他者の存在を敵とするよりも寧ろ頼みとし、他者の力を押しつぶすよりも、それ引き出し味方に付ける
そうその方向に舵をとりえた者こそ、この世界では生き残ることが出来る。
PC-8001の開発にあたり自社開発したBasicを捨ててまで、マイクロソフトに乗り換えるという決断をしたのも
これが業界の標準を占めつつあるとの判断からである。
技術情報を可能な限り公開し、サードパーティーによる関連製品の開発を促していくオープンアーキテクチャーこそ、パーソナルコンピューターの魂である。

と渡辺は信じていた。
もしも渡辺が確固たる開発力を備えるコンピューターの専門部隊であれば、当然すべての要素を自ら用意しようとしただろう。
しかし充分な予算も開発力も持たないデバイス事業(販売部)の片隅で、パーソナルコンピューターの卵を育てることになり、
これを大きく育てようとするには他力によるほかはなかったのである。
そうオープンアーキテクチャーを選択したことは、その意味では怪我の功名としての一面でもあり、
渡辺たちはパーソナルコンピューターを支える精神の核を模索しながら掴み取り、PC-8001を育て上げてきたのだ。

確かに高機能で低価格なコンピューターは競争力を持った製品ではある。
だが一方はあくまで端末であり、もう一方はあくまでオフコンなのだ。
これはパーソナルコンピューターにはなっていない。
少なくとも、私の知っているパーソナルコンピューターではない

渡辺はそう口を切り、

こんな製品をPCシリーズの上位機種として受け入れる訳にはいかない

と情報処理部隊の前でそう断言したのである。
16ビットマシンは法人をターゲットとした情報処理部隊が担う。
とトップが顔を揃えた会議でそう大枠が定められて以来、
渡辺の中で熱をはらみながら鬱積してきた思いに、
あくまでこれまでの仕事の流儀から踏み出そうとしない、電算部隊に怒りを覚えたのだ。
8ビットからスタートしたパーソナルコンピューターが早晩16ビット化することは、誰の目にも明らか、
その技術の明日をトップの決定は、渡辺たちから奪おうとしている。

だがこれでは、未来を奪われるのは我々に留まらない

口の乾きが舌を強張らせるのを意識しながら、渡辺は内心でそうつ呟いていた。

これが新たな16ビットマシンとなるのなら、日本電気のPCシリーズに
明日はない・・・

渡辺が炎のような言葉を投げた瞬間、室内の空気はゼラチンを溶かすようにこわばり始めていた。

このいずれかをPCシリーズの上位機種として製品化したとしても、とても売れるとは思えない

と渡辺は、重苦しい空気を切り裂くようにそう宣言したのである。

では、あなたの言うパーソナルコンピューターとは何なのでしょう?
どうすれば、あなたの考えるパソコンになるのです

そう切り返した浜田に、渡辺は16ビット機の備えるべき条件を一つ一つ数えはじめた。

まず第一にBasic。
これに関しては、従来採用してきたものと互換性を持つマイクロソフトの商品を採用する。
しかしこの言語が使えるというだけでは充分ではない。同じBasicといっても開発主体が異なればそれぞれに差異がある。
同じマイクロソフトのプログラムでも、異なるマシンに搭載された場合にはメーカーの注文に応じて機能が拡張されている、
そのためカスタマイズされたプログラムを他の機種で動かそうとすると、そこが引っかかり動かなくなる。
そこで新しいマシンでは、PC-8001と上位機種(PC-8800)のBasicに互換性を持つマイクロソフトのものを採用し、
そうすることで、従来のユーザーやサードパーティーが書きためてきたソフトを、そのまま資産として利用出来る。

第二にディスプレイやプリンター、フロッピーディスクドライブなどの周辺機器も、これまでPCシリーズで使われてきたものをそのまま採用する。
そのためには新16ビット機ではすべての構成要素をセットにした商品構成はとらず、
本体は本体、その他の周辺機器は周辺機器と製品をばらばらにしたコンポーネント形式で臨む。
そしてこの機器の接続用コネクターには従来通りのものを採用し、これまでユーザーが使用してきた製品をそのまま活用出来るようにする。

第三に、これまで補助記憶装置として利用されてきたカセットテープレコーダーも接続できるように考慮し
第四に拡張用スロットの仕様を公開し、サードパーティーによる増設ボードの開発を促す。

要するに、これまでの8ビットマシンの延長路線の製品を作れということなのか

と渡辺の列挙する条件を走り書きしながら、浜田はそうそう考えていた。
そうオフィスコンピューターの小型化を更に推し進め、

これをビジネス用パーソナルコンピューターと位置づけよう

という提案には、かつてオフコン(システム100)開発の中心メンバーである浜田自身が深く関わっていたのである。
彼らにはコンピューターの本家としての自負があり、慢性的な赤字に苦しめられていた事業に突破口を切り開いてきたとの自信もあった。
それゆえ

オフィスコンピューターの更に下位に新しい市場が開かれるのなら、
自分たちが今まで切り開いてきた製品からいっそう小型化したマシンをぶつけてみよう

とごくごく自然にそう考えたのである。
しかしここまで独力で市場を切り開き、パーソナルコンピューター文化の旗手として、第一線で戦い続けてきた渡辺和也は、

8ビットの延長、そしてオープンアーキテクチャーこそが新16ビット機の必須条件である

と強く指摘してきた。

ではどうするのか。
あくまで従来路線の延長上に、新16ビットマシンを置いて行くのか。
それともパーソナルコンピューターがそうしたものであるというのなら、彼の主張を受け入れ思い切った方向転換で打って出てみるのか。

そうこれまでパーソナルコンピュータを軌道に乗せようと独力で奮闘してきた、その人物の明日を奪い取ることへの無意識の拒否反応が、
PC-8001の延長路線という選択肢を浜田の脳裏から追いやっていたのだ。

だが渡辺和也本人が、PC-8001を継承する16ビットマシンを望むというのなら・・・
彼らが切り開いてきた道を、あえて避ける必要はないのかもしれない。

しかし共にオープンアーキテクチャーへの転換を迫られる立場の端末チームは、

我々は既定の方針通りの方向性で勝負する

と結論を出していたのである。
81年7月、端末装置事業部は開発を進めてきたインテリジェント端末の新機種をN5200モデル05と名付け発表したのである。
だがパーソナルコンピューターを名乗る代わり、このマシンではパーソナルターミナルと銘打たれての登場となった。

インテルの8086を採用したこの商品は、一体型の筺体に容量1メガバイトの8インチドライブ2台が標準で組み込みこまれ、
OSには日本電気オリジナルのPTOSを採用し、
画面表示を高速化するため、日本電気のオリジナルのGDCと名付けられた専用LSIを初めて採用
価格はRAM48キロバイトの標準構成で79万8000円と従来のN6300の半額以下に設定されたのである。
そして出荷開始は12月を予定しており、3年間に3万台の販売を見込むと言う。

しかし端末部隊が我が道を選び、小型コンピューターの開発作業を進めてゆ中、
一方の浜田のチームは、尚もパーソナルコンピュータへの答えを迷い続けていた。
パーソナルコンピュータとは果たして何なのか。
その答えを求めて、情報処理部隊が五里霧中の迷路に迷い込んでいる頃、
海の向こうのアメリカでは、コンピューター業界に変革を起こす出来事が起きていた。
業界の巨人IBM、パーソナルコンピューターを発売する

1981年8月12日。
あの業界の巨人IBMがパーソナルコンピューター市場に乗り出してきたのである。
その製品の名は、
IBMパーソナルコンピューター(型番:IBM 5150)
そうこのパソコンこそ、その後世界中に普及しデファクト・スタンダードとなるPC互換機のルーツともいえるマシンなのだ。

そして浜田を驚かせたのは、
その巨人の作り出したマシンは、情報部隊が提案したクローズ型のコンピューターではなく、
オープンアーキテクチャーを採用した、そう渡辺和也の注文をそのまま受け入れたようなマシンだったのだのである。

今回はここまで
いよいよ巨人IBMが、パーソナルコンピューター市場を凌駕しようと動き出す。
しかしこのPCの誕生は、これまで業界を独占し続けてきた巨人に終わりを告げ、
新たな覇者(マイクロソフト・インテル)を生み出すきっかけをつくることに、
そして、日本電気はこの黒船にいかに対抗するのか
そういよいよ、あのマシンが開発される。
次回は、業界に変革を起こすことになるIBMPCの誕生物語をご紹介させて頂きます。

ご閲覧ありがとうございました