PC8001の誕生
~日本のパーソナルコンピューターの夜明け、PC8001 PC8800 PC9800~
ご訪問ありがとうございます。
今回は、日本のパーソナルコンピュータの普及に大きな影響を与えることになる、名機PC-8001の誕生についてご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
76年に日本電気のデバイス事業部の販売部門(マイクロコンピュータ販売部)から生まれた、マイコンキットのTK-80の成功により、
生みの親である渡辺さんたちは、
その勢いのまま翌年の77年にTK-80の拡張キットであるTK-80BSをリリースし、
更に翌年の78年には、今までの学習教材の製品からパーソナルコンピュータへと大きく踏み出すことになる、コンポBS80を発売することになるんだ。
そんな中マイクロコンピュータの販売活動を兼任しながら、パーソナルコンピュータの開発に夢中になる部下たちを、
上司の大内さんは彼らに釘を刺しながらも、その熱意の行方を見守り続けていたんだ。
しかし・・・
うーん、これ以上先に進めば、もう道楽ではすませられなくなる。
と大内さんが初めて危惧を覚えたのは、
渡辺さんが、コードネームPCX-01と名付けられた、新しいパーソナルコンピューターの企画を提案してきた時なんだ、
そうマイクロコンピュータも変われば、ベーシックも変わる、
台頭しつつあるパーソナルコンピュータ市場を狙い、部下たちは世界の流れを読みながらPCX-01で面目を一新しようとしていたのだ。
部下の説明によれば、このマシンではこれまでのCPU8080に代えて、Z80を採用するという。
開発元はザイログ社。インテルで8080を開発したスタッフがスピンオフし、互換性を保ちながら機能を強化し、処理速度を高めたものがZ80であるという。
日本電気ではこのCPUと互換性のあるμPD780という製品を製造しており、実機にはこれを載せ、
そしてBasicには、マイクロコンピュータ販売部内で開発してきた、従来のソフトに代えマイクロソフトというアメリカのベンチャー企業のものを採用するという。
このメーカーのBasicはアメリカで続々と生まれてきたパーソナルコンピュータに幅広く採用され、業界標準の地位を占めつつあるという、
そしてアルファベットの大文字や小文字、カナ文字、各種の記号を取り扱えるほか、160×100ドットの解像度で、八色のカラーを表示することができ、
更に中心となる本体に加えて様々周辺機器を用意していきたいという。
カラーもしくはモノクロの専用ディスプレイやフロッピーディスクドライブ、プリンター、そしてパソコン通信に使用する音響カプラー。
こうした機器を別に用意し、目的に応じて様々なシステムが組めるモジュール形式のマシンにすると言う。
確かにこの開発プロジェクトの規模はごくごく小さい。しかしPCX-01は、様々な周辺機器を従えコンピュータシステムを志向している。
そう、部下たちのやりたいことは、個人向けの超小型市場を狙ったコンピュータ事業への参入にほかならなかったのである。
TK-80は確かに売れていたし、アメリカでは機能を強化したパーソナルコンピュータが続々と製品化されている。
だがデバイス事業の販売部門が本格的なパーソナルコンピュータに挑むといって、いったい誰が製品をさばいてくれるのか。
1台が数百万円、数千万円のオフィスコンピュータを扱うディーラーが、僅か数十万円の機械を積極的に売りさばいてくれるわけがない。
確かに秋葉原に続いてビットインは横浜や名古屋そして大阪にも開設され、
加えて、各地の半導体部品の販売会社の中には、NECマイコンショップとしてTK-80を扱ってくれるところが数軒は生まれている、
とはいえ、渡辺たちのパーソナルコンピュータが頼みうる販売ルートとしては、これだけではあまりにも細い。
こんな脆弱な売り先を頼りに、パーソナルコンピュータ事業を本格化させ、果たして勝算はあるのだろうか?
と大内は考え込まざるをえなかった。
それに本質的に、社内にコンピューターの一大専門部隊を抱える日本電気の他のセクションが、
極めて小規模とはいえコンピューター事業に本格的に手を染めてよいものなのか。
と大内は迷っていたのである。
そう部下たちは今、パーソナルコンピュータというパンドラの箱を開けようとしている・・・
と、そんな悩める上司に、渡辺は繰り返し食らいついて来るのである。
自信のある製品が開発出来たからといって、販売ルートはどうするんだ?
製造は何処でやる?
本業の営業活動が手薄になることはないのか?
大内が質そうとするすべての問いに、渡辺はあらかじめ答えを用意したうえで、繰り返し事業化の許しを求めたのである。
この部下との激しいやりとりの中から、彼らの内に湧き上がっている熱の凄まじさを、大内はあらためて痛感させられたのである。
確かにマイクロコンピュータ市場は、前年の70パーセントを超える伸び率で成長を続け、そしてTK-80も売れ続けていた。
それに渡部は一人ではなかったのだ。
彼の後ろには後藤たちが控えており、その背後には個人のコンピュータに夢を託そうとするおびただしいマニアたちの姿が存在するのである。
この部下の熱意に押され、大内は次第にPCX-01の事業化に傾いていくことに、
但し新たな販売ルートの開拓は取り組まず、ビットインと半導体部品の販売店のうち、希望するところだけに流すという従来どおりのルートでそっと踏み出すことでゴーサインを出したのである。
日本のコンピュータの歴史に刻まれる、名機の誕生
79年5月。
PC-8000シリーズやPC-8800、そしてPC-9800シリーズを生み出すきっかけになる、NECのパーソナルコンピュータの原点ともいえる、
PC-8001が発表されたんだ。
本体価格は16万8000円で、目標の販売台数は月間2000台でした。
予定していた8月から一か月遅れで出荷が開始されたこの新商品は、デバイス事業部の予想を超えた結果が待ち構えていたのである。
そうこのPC-8001は、発売当初から爆発的な人気で売れ始めることになるんだ。
このマシンは販売目標を大きく上回るペースで出荷され、ユーザーは数か月間製品が手に入らないほどの人気商品となり、
更にこの新商品の快走を追うように、NECマイコンショップの販売店の数も、目覚ましい勢いで増えていくことになるんだ。
77年度はわずか1軒、翌年は3軒しかなかった販売ルートは、PC-8001が発売された79年度に15軒、更に翌年は40軒、そして81年には、168軒を数えるにようになり、
家電量販店もまた他社製品と併売する形で、競ってこの製品を扱うようになるんだ。
そして発売以来の2年間で、PC-8001は12万台の出荷を達成することに、
そう、このPC-8001の登場からパーソナルコンピュータは、誰の目にも大きな可能性を秘めた魅力的な市場へと映りはじめていたんだ。
日本電気の家電部隊がパソコンに名乗りを上げる
パーソナルコンピュータのもう一人の育ての親として、まず名乗りを上げたのが、子会社の新日本電気グループだったんだ。
コンポBSまでの商品の製造は外部の日本マイクロ・コンピュータに依託していた、
しかしPC-8001からは家電部門をになう新日本電気が引き受けるようになっていたんだ。
そして新日本電気は79年の1月にデバイス事業部が開発したPCX-01(PC-8001)の製造依託書を受け取ることになり、
しかしこの子会社では、それ以前からパーソナルコンピュータを独自に開発するという検討が始まっており、
物作りをになう立場から、このマシンの快走をつぶさに見守っていた新日本電気は、家電担当という自らの守備範囲に合わせ家庭用の低価格機種の開発計画を具体化させようとしていた。
この動きを察知した大内さんは、正面から互いを食い合うライバルがグループ内で並び立つことを防ごうと、
製品の性格付けに関してマイクロコンピュータ販売部と新日本電気の担当セクションとの間で調整を行うように
と指示を出したんだ。
しかしこのすり合わせの作業は、延々と難航し、
しかも新日本電気は、PC-8001にほぼ匹敵する機能を備えながら、互換性のあるベーシックを積んだ、PC-8001用に書かれたプログラムをそのまま走らせることの出来るマシンを
価格を切り下げ発売しようと考えていたんだ。
だがこのプランは、デバイス事業から異議が申し立てられ
機能がほぼ同等で価格が安いとなれば、せっかく軌道に乗りつつあるPC-8001のビジネスに大きな打撃を受けることは明らか、
ではグループ内のシリーズという統一感を持たせながら、価格と性能をどう切り分けていくのか。
この問いを前にして、デバイス事業(マイクロコンピュータ販売部)と新日本電気の間で睨み合いが続くことになるんだ。
渡辺さんからすれば、
新日本電気のプランはどこまで行ってもPC-8001に近づき過ぎてしまっている
と見ており、
一方の新日本電気の立場からすれば、
あれもいけないこれもいけないとはねつけられたのでは、シリーズとしての統一感を持つ機種など作りようがないです
との思いがあり、
そのため80年の終わりに近づいても、両者は未だに合意を見ることが出来ずにいたんだ。
そんな中でも発売開始以来1年を経過してんも尚、PC-8001は好調を維持し続けていたんだ。
日本電気のボスがパーソナルコンピュータ事業への参入へと動き出す
事業部間での軋轢が表面化しつつある中、
この大組織の雲の上の上層部が、デバイス事業部が生み出した、パーソナルコンピュータの存在を知る出来事が起こっていたんだ。
それはそれまでこのマシンの存在すら認識していなかった日本電気の小林会長が、パーソナルコンピュータの本場である、出張先のアメリカでのこと、
小林会長は、取引先からこうもちかけられたんだ
御社の話題になっている、コンピュータ製品を仕入れたいのだが・・・
との依頼を受け、小林さんは何のことかわからず目を丸くすることに、
先方の話によれば、その製品とはPC-8001とかいうパーソナルコンピュータというものらしく、
そんなものは知らない
と答えると、取引先は英文のパンフレットを取り出し、小林さんに見せるのである。
そう、パンフレットには確かに、NECの三文字が入っていたのである・・・
NECのPC-8001?
そうパーソナルコンピュータの有力機種が自社から売り出されていることを初めて知り、
この時、このマシンは日本電気の会長の頭に鮮明に刻み込まれたのである。
この大組織の片隅で生まれたPC-8001というマシンが、日本で大きな変革を起こしつつあることを、小林会長ははっきりと認識したのである。
後にNECの中興の祖とも呼ばれるようになる小林さんは、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業後、日本電気に入社し、
64年に社長に就任した時には、同年、松下電器産業(現・パナソニック)の総帥であり経営の神様と呼ばれた松下幸之助が
コンピュータは、金食い虫で儲からん
としてコンピュータ事業からの撤退を表明した時、
松下さんともあろう人が、この将来有望な市場に見切りをつけるとは、いかにも残念
コンピュータは今でこそソロバンが合わないかもしれないが、このビジネスは必ず、家庭電器の分野にも不可欠なものになるであろう
とコメントしているんだ。
更に76年には日本電気の会長となり、その翌年にアメリカのアトランタで開催された、インテルコム77において
コンピュータと通信の融合をうたったC&C(コンピュータ&コミュニケーション)の理念を提唱しているんだ。
そう、通信とコンピュータの融合を目指すという日本電気の戦略(C&C)にとって、一人ひとりの手元で機能するパーソナルコンピュータは重要な鍵を握っていたんだ。
ここからデバイス事業部の一角で細々と開発されていたパソコン事業は、
この大組織のトップの元、NECという会社を上げ大きく動き出すことになるんだ。
今回はここまで
次回は、いよいよ、日本電気の会長が動き出し、
この年の暮れに、小林会長は全役員と事業部長を合わせた300人に召集をかけ、パーソナルコンピュータの勉強会をスタートさせ、
会長も自ら最前列に座りPC-8001のキーボードを叩きはじめる。
そして、上司の大内さんを会長室に呼びよせ、渡辺さんたちを専門の事業部へと独立させるようにと決断を促し、
更に日本電気のコンピュータ事業の本流である、情報処理部隊もパーソナルコンピュータ事業への参入に向けて動き出す。
ご閲覧ありがとうございました。