【PC98物語#6】IBMの誕生、ミニコンピュータの驚異DEC
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今回は、コンピューター業界に変革を起こすことになるIBMPCの誕生までの道のりをご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
1981年8月12日。
あの業界の巨人IBMがパーソナルコンピューター市場に乗り出して乗り出して来た。
その製品の名は、
IBMパーソナルコンピューター(型番:IBM 5150)
そうこのパソコンこそ、その後世界中に普及しデファクト・スタンダードとなるPC互換機のルーツともいえるマシンなんだ。
しかしこのPCの誕生は、これまで業界を独占し続けてきた巨人に終わりを告げ、
新たな覇者(マイクロソフト・インテル)を生み出すきっかけをつくることに、
クローズ型のビジネスモデルで徹底的にライバルを押さえ込み、市場を制覇し続けたIBMが
何故競合の参入を許す、オープンアーキテクチャのーパーソナルコンピューターを開発したのか?
今回はIBMの誕生から、この巨人がパーソナルコンピュータを生み出すきっかけとなった
ライバルメーカー(DEC)の出現についてご紹介させて頂きます。
機械計算機の覇者IBMの誕生
大型コンピューターの覇者であり絶大な組織力と技術を兼ね備えた国際的巨大企業、IBMのルーツは、
1896年、パンチカードマシンを開発したタビュレーティングマシン社から始まるんだ。
1861年南北戦争以降、急速に工業化を推し進め、大量の移民を安い労働力として受け入れていたアメリカでは、
連邦政府の国勢調査部門が、かき集めてきたデータを集計し、数字の山から有用な統計資料を引き出す作業に困り果てていた。
そんな中ヘルマン・ホレリス(統計技官)は織機(ジャカード織機)や自動ピアノからあるアイディアを思いつく
ジャカードマシンも自動ピアノも、カードにあけた穴の位置によって機械の動作を制御している。
という点に着目した彼は、
個人のデータを1人1枚のパンチカード(穿孔カード)に記入するれば、集計という手作業から開放されるかもしれない
と考えたのである。
性別や年令をはじめとする調査結果を穴を開けて表現し、この穴によってカードを分類するという彼が考え出したマシンは、
後にパンチカードシステムと名付けられ、
設立した会社を急成長させると共に、多くのライバルを登場させたんだ。
やがて競合による業績の悪化に見舞われたホレリスわ、会社を売り払い(1911年)
これを引き継いだ新しいオーナーは複数の企業(タイムレコーダー社など)と合併させ、CTR(コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング)を設立するんだ。
そして3年後の1914年、後にIBMを世界的大企業に育て上げ、世界一偉大なセールスマンと言われることになる人物が登場する。
それはキャッシュレジスターで急成長した、NCR社で辣腕のセールスマンとしてのし上がってたきた
トーマス・ワトソンがCTRの総支配人に就任したんだ。
彼は直販営業部門や販売特約店の整備
セールスマンの歩合制とノルマ制の導入
事務機器メーカーとして世界初の開発部門の強化などの改革を実行し、
事務機器を売るならNCRのセールスマンを雇えばよい
と言わしめていたNCR流の販売戦略を持ち込み、組織を急成長させたんだ。
更に追い風となったのが、この年に勃発した第一次世界大戦なんだ。
この大戦は、軍需産業や行政府に膨大な事務作業を発生させ、
やがて大量生産、大量消費に向け勢いよく資本主義のエンジンを回し続けるアメリカで、
計算処理を自動化出来る道具は潤滑油の役割を果たすようになるんだ。
1920年代の不況期にも、CTRの作表機は会計業務の経費削減や在庫の適正化の道具として多くの大企業に採用され
1924年には社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシンズ)に変更し、
カードに穴をあける穿孔機(パンチ)と穴によってカードを仕分けする分類機(ソーター)、
カードに記録されたデーターを計算処理する作表機の3つの商品からなるパンチカードシステムをレンタル制で供給し、
保守やカードの販売などの囲い込み戦略で収益を上げていったんだ。
その後世界経済が辿る規模拡大の流れは、計算処理の増大の歴史でもあり、これがIBMの発展と大きく重なり、
やがてこのメーカーは集計マシン市場で80パーセントを超える圧倒的なシェアを獲得ことになるんだ。
しかし1932年。この行き過ぎた囲い込みは、連邦政府により独占禁止法違反で告訴され、
有罪判決の結果、政府から
他社にも競争の機会を与えるように
と迫られるも、その後もこの巨人の独占が揺るぐことはなかったんだ。
しかしIBMにとって、脅威となりかねないテクノロジーが40年代に訪れる。
電子コンピューターの誕生
それを生んだのはドイツの侵攻から始まる第二次世界大戦の影響から登場した、電子計算機(コンピューター)なんだ。
巨大な国家予算を背景に、計算の能力を軍事利用に活用しようとする試みが進められ、
ハーバード大学(ハワード・エイケン・IBMの支援が支援)は、44年にアメリカ初の自動計算機”Harvard Mark I”を完成させ、
一方のペンシルベニア大学(ジョン・W・モークリーとJ・プレスパー・エッカート)は”ENIAC”(46年)の稼働にこぎ着け、
更に後継機を”UNIVAC”(51年・レミントンランド社)と名付けコンピューターの市場に乗り出してきたんだ。
当然IBMも遅れること2年後の53年、大型コンピューター(701・科学技術計算機・702・事務処理用)を完成させ
徹底した低価格攻勢でライバルメーカー(UNIVA)を追いかけたんだ。
50年代後半になると、コンピューターは寿命の短い真空管から、半永久的に利用出来るトランジスターへと移り変わり、
このデバイスを採用した第2世代コンピューターの時代でも、
この巨人(IBM)は、過去のノウハウの蓄積、ユーザの要求を吸い上げる確固たる営業力や技術体制から、
大企業や大組織相手の大型コンピューター(科学技術計算用の7000シリーズや事務処理用の1400シリーズ)を展開し業界を支配しようとしていたんだ。
60年代の第3世代コンピューターの時代には入ると、IBMの覇権を後押しする
史上最も成功したコンピューター(当時)が登場するんだ。
IBM、ベストセラーコンピューター、システム360の誕生
それが新世代機(コンピュータの第3世代)、システム360なんだ。
この製品名には、
すべての用途、すべての規模の要求に360度対応出来るマシン
という意味が込められており、
今迄用途別(科学技術計算用、事務処理用など)に複数の製品(シリーズ)を発売していたものを1本化し、
同じ(シリーズの全機種)のOSで、同じプログラムを使えるようにするなど
それまでのコンピューターとは一線を画す画期的なシステムだったんだ。
この360の登場は、業界で後発から追いかけたIBMが、再び市場で圧倒する原動力となり
パンチカードからコンピューター時代への変化の波を、完全に乗り切った象徴と言われるようになるんだ。
しかしこの巨人が大組織、大企業のデータ処理という市場を独占している間、
その片隅にある小さなネットワークから、IBMの驚異となるマシンが生まれることになるんだ。
そう後にこのメーカーがパーソナルコンピュータを作らざる得なくなる、教訓となるライバルメーカーが現れたんだ。
IBMの驚異、ミニコンピューターの誕生
1955年、マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究所(リンカーン)でパーソナルコンピューター(TX-0)の研究に取り組んでいた、ケン・オールセンは、
57年、開発過程で生み出した技術をビジネスに生かそうと
ボストン(メイナード)に、DEC(ディジタルイクイップメント社)という会社を設立したんだ。
7万ドルの資本は、ベンチャー投資会社の先駆けとなるアメリカン・リサーチ&ディベロップメント社から出資され
しかし創業当時は、将来の可能性を感じさせてはいたものの、未だにビジネス(コンピューター)の軌道に乗っておらず、
そのため最初の事業をコンピューターや機械のコントローラーなど、モジュール回路の開発から始めたんだ。
この後DECはモジュール製品のラインナップを拡張してゆき
ある特定の機能を持った回路を一まとめにした商品群は、その後誕生する集積回路の先駆けとなり、
このコンピューターを部品ごとに分けて開発するという手法は、
後のパーソナルコンピュータのオープンアーキテクチャーの思想に大きな影響を及ぼすことになるんだ。
やがて経営が起動に乗り始めると、このモジュールを組み合わせ会社設立の本来の目標である”道具としてのコンピューター”の開発にも着手し始め、
創業から2年後の59年、このメーカーを急成長させるマシンが登場する。
ミニコンピューター、PDP1の登場
それが後にコンピューターの世界にハッカー文化を生み出すことになる、シリーズ最初のマシンPDP-1なんだ。
この年にボストンで開かれたジョイントコンピューター会議(1959年12月)で、この製品のデモンストレーションが行われ、
紙テープを打ち出すタイプライターとブラウン管ディスプレイを備えた、極めて小さな筐体(当時として)や
数百万ドルという、この頃のコンピューターにたいし、破格のリーズナブル(12万ドル)な製品だったことから、
様々な分野の研究者たちの格好の道具として注目を集めることになるんだ。
やがて研究者たち(ユーザー)は横の連絡をとり合い
DECUS(Digital Equipment Computer Users Society)と名付けた組織を結成し、このマシンに関する情報やユーザーが開発したプログラムを共有しはじめたんだ。
このマシンの評判からDECは、次々とPDPシリーズを発表してゆき
その間も、先進的なユーザーが書きためたソフトがユーザーのネットワークで広まるようになり、
大学や研究機関へのミニコンピューターの普及をいっそう後押しすることになるんだ。
そうソフトウェア資産の蓄積からハードが売れるという
パーソナルコンピュータ文化のはしりともいえる現象が、この頃から起きていたんだ。
当時最も成功したコンピューターPDP-8が発表
更に6年後の65年にDECの成長に弾みをつけることになるマシンが登場する。
それは後に5万台を売り上げ、当時最も成功したコンピューターPDP-8が発表されたんだ。
従来の枯れた技術で構成する代わり、このマシンでは小型化と低価格を徹底して推し進め、
当時としては破格の1万8000ドルにまで価格を抑えることに成功し、
更にタイプライターのように机の上に置くことが出来るコンパクトな作りから、
工作機械やプラントの制御という新しいコンピューターの利用分野にも市場を切り開いていてゆくんだ。
その後も70年にのPDP-11シリーズ((16ビット)、77年にはのVAXシリーズ(32ビット)を発表し
この頃には、大型コンピューターを独占するIBMが”Big Blue”と呼ばれるのに対し、
小型コンピューターを圧倒するDECは”Small Blue”と呼ばれるようになるなど
遂に巨人(IBM)に続く売上高世界第2位(1981年)のコンピューターメーカーにまで成長することになるんだ。
大組織、大企業市場で徹底してライバルメーカーの押さえ込みに成功してきたIBMが、
その視野の外にある、超小型市場の開拓をDECに許してしまったのである。
そうこのメーカーの存在こそ、IBMの教訓であり
これ以降IBMは大型コンピューターの下流の世界で、巨人を脅かそうとする者たちを警戒しはじめるようになるんだ。
70年代中頃からミニコンピューターの更に下位に、パーソナルコンピューターという新しい世界が開けつつあることを察知した”Big Blue”は、
いよいよ、パーソナルコンピューターの覇権に向けて動き出す
今回はここまで、
次回は巨人(IBM)のもう一つの驚異、世界初のパーソナルコンピュータの登場、そしてマイクロソフトの誕生をご紹介させて頂きます。
ご閲覧ありがとうございました