【PC98物語#2】TK-80の誕生
~日本のパーソナルコンピューターの夜明け、TK-80 TK-80BS コンポBS80~
ご訪問ありがとうございます。
今回は、NECという大組織な中で、社内ベンチャーを敢行し、
日本のパーソナルコンピュータの夜明けを作り上げた、
TK-80やPC-8001を生み出した渡辺和也さんや後藤富雄さんの奮闘の物語を上司の大内さんの回想というかたちでご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
81年初頭、NECのパーソナルコンピュータ事業の将来を決定する御前会議が開催され、
その後日本電気グループは、三つの柱を据えパーソナルコンピュータ事業に取り組むことになるんだ。
一つは子会社の新日本電気が担う、家庭用の8ビットの低価格マシン(PC-6001シリーズ)。
二つ目が、コンピュータの専門部隊である情報処理事業が新たに取り組む16ビットの事務用コンピュータ(PC-9800シリーズ)。
そして三つ目が、これまでこの分野を切り開いてきたデバイス事業が、両者の中間的な機種を従来の製品の延長上に展開してゆくこと(PC-8800シリーズ)。
しかしマイクロコンピュータの販売という本業をこなしながら、孤立無援の中ここまで日本電気のパーソナルコンピュータを育ててきたデバイス事業部の渡辺さんたちは、
主力商品のPC-8800シリーズで、その後誕生するであろう、情報処理部隊の高性能マシンや
低価格路線のPC-6000シリーズ(新日本電気)との社内競争に生き残ってゆかなければならなくなったんだ。
この3部門の競争を容認したのがデバイス事業を統括し、渡辺さんたちの奮闘ぶりを見守り続けた上司の大内副社長なんだ。
大内さんはこの日本電気のパーソナルコンピュータ事業の将来が決定された会議の後、
副社長室の椅子に深く腰を下ろしながら、
部下が熱っぽくTK-80やPC-8001を生み出そうと懸命に走り続けていた時代を振り返ろうとしていた。
マイコン組み立てキットTK-80が、日本電気のパソコンの源流を開く時
これは、パーソナルコンピュータ(パソコン)という言葉もまだ存在していない、
コンピュータが、マイコンと言われるようになりはじめた、1970年代の物語である。
TK-80を通して覗いた生まれ立てのパーソナルコンピュータという世界は、大内の目には創世記時代の混沌とした世界のように見え、
コンピュータいじりを楽しむ多くのユーザーたちが存在することは、間違いのない事実であった。
しかしこの趣味の世界が果たして今後も成長し続けるものなのか、この頃の大内には確信があった訳ではない
どこまで突き進んでいくのか確かめたいと思ったのはむしろ、部下たちの胸に湧き上がりたぐり始めていた熱の行方だったのだ。
大内さん、マイクロコンピュータの需要を掘り起こすには、まず部品化されたコンピュータに対するイメージを幅広い層のエンジニアにつかんでもらう必要があります。
技術者がこの新種の部品を理解してくれれば、ここに使おう、あそこに組み込んでみようというアイディアは彼らから自ずと湧いてくるものなのです。
そのためにも、理解を助けるための教材が必要なんです。
との説明を受け、部下の渡辺和也(マイクロコンピュータ販売部)が提案してきたキット式マイコンのTK-80に、何の迷いもなく上司の大内はゴーサインを出したのである。
ところがこのマシンは、彼らの予想を遥かに超える展開をみせはじめ、月に1000台ものペースで出荷される大ヒット商品になるんだ。
そうコンピュータを組み立て、プログラムを書き、自分で動かしてみること自体を楽しむマニアがTK-80をかつぎ、このマシンの誕生がまた新しいマニアを生み出す切っ掛けになっていたのである。
77年7月、大内自身が代表して著者となったマイコン入門(廣済堂・77年)の原稿には、日本電気の関連事業の担当者が分担して執筆にあたり、
このうち第一章を担当した渡辺和也は、いかにもこのブームの火つけ役らしく、マニアの世界の成長を大きく見積もった原稿を随筆したのである。
アメリカではマイコンの同好会が各地に続々と誕生し、76年には300以上のクラブができ、数万人のユーザーがマイコンを楽しんでいるという。
クラブのメンバーが集いお互いに自分の作った作品を発表しあったり、情報交換したり、テーマを決めてプログラムコンテストを行なったりとその活動は大変盛んであるらしい。
そして日本でも、一年遅れてアマチュア活動が活発になってきたのである。
その切っ掛けは、アマチュア用のマイコン組立キットが市販され始めてから急激に盛んになり、
東京秋葉原の電気街に、マイコン専門のサービスセンターやショップが開店され、
連日大勢の人たちで賑わい、マイコンクラブもいくつか誕生している。
更に専門雑誌(月刊アスキーや月刊マイコンなど)が出版されるなど、マイコンはユーザーの間で確実に浸透しつつあるのだ。
数年後にはアマチュア無線の人口をオーバーするほど、マイコンユーザーは増えて行くだろうと予想する人たちもいる。
アマチュア無線とマイコンを組み合わせて友人のプログラムを無線を通して楽しんだり、モールス符号の自動解読やコールサインの判別、アンテナの調整等への応用も始まっている。
これからのキミたちは、マイコンを楽しむことが当たり前になり、個人で一つのコンピュータを持つ時代がやって来るのかもしれない。
その勢いのまま渡辺さんたちは更に、TK-80の延長線上に次々と新しい製品を企画してきたんだ。
翌年の77年11月には、TK-80に付け加えて使用するTK-80BSをリリースし、
BSとはベーシックステーションの略で、定価は12万8000円でした。
渡辺さんたちはキーボードの搭載したこの製品とTK-80を組み合わせることで、ユーザーが様々なシステムとして利用出来るようにしています。
このマシンを発表した頃には、TK-80の販売台数は1万7000台を超え、
この勢いに更に拍車をかけるように、翌年の77年には
機能はそのままに定価を従来の8万8500円から6万7000円へと切り下げられた、TK-80E(廉価版)もリリースしているんだ。
さらに翌年の78年10月には、コンポBS80が発売され、
このマシンでは、今までの学習教材の製品からパーソナルコンピューターへと更に大きく踏み出した、組み立て済みの完成品として販売されたんだ。
そう新しく開発されたCPUボードや電源などが専用ケースに収めたこのマシンには、もう学習教材の面影はなかったんだ。
この頃になると、TK-80(廉価版込み)は2万6000台、TK-80BSは1万台も出荷されるようになり、
このシリーズは部下が提案した学習教材という原点を離れ、一歩また一歩と個人のためのコンピュータに近づきつつあったんだ。
この状況に上司の大内さんは、部下たちがマイクロコンピュータの販売という与えられた役割を踏み越えはじめたことを意識し始めていたんだ。
それゆえTK-80の関連製品が予想外の販売実績を上げはじめてからは、勢いづく部下に対し、
ちょっといいかな、渡辺くん
なんでしょう、大内部長
いいか何度も言うようだが、このマシンの商品化は、あくまでも販売部の道楽だからな
TK-80の売り上げは、販売目標の勘定外であり、営業成績はあくまで本業のマイコンの販売だけでも達成するんだぞ
と、部下に釘を刺してきたのである。
彼からの報告が好調なTK-80関連製品に及ぶと、大内は繰り返しそう指摘して渡辺を滅入らせた。
だが道楽を道楽と意識しながらも、大内は彼らが熱中するものを止めようとはしなかったのである。
予想外の成功が続く中、彼自身がパーソナルコンピュータの可能性に確信を抱きはじめたからではない。
大内が発見したものは、むしろ部下たち(マイクロコンピュータ販売部)の中で滾たぎりはじめた熱の勢いだったのだ。
あのTK-80が発売された間もない76年9月、
秋葉原駅前のラジオ会館七階に、マイクロコンピュータを普及させるための拠点としてNECビット・インを開設することになった時、
渡辺は運営を依託された日本電子販売の野口重次さんに申し入れあのマシンの販売や修理そして相談のためのコーナーを作ってもらおうとしていた。
野口さん、3坪でいいですから、このマシンをサポートできるスペースを貸して欲しいのです
と深々と頭を下げる渡辺の姿に野口さんは、
なんと30坪ものスペースを提供することで、この若者の熱意に応えたのである。
東芝で長くエンジニアとして働いた経験を持つ野口さんは、彼の情熱とマイクロコンピュータに直感的に惚れ込んでいたのだ。
このビットインには渡辺の部下である後藤をはじめとするスタッフが交代で詰めかけ、やがてこの一角はTK-80ユーザーのサロンに育ってゆき、
対応にあたるスタッフの予定表が貼り出され、エプロン姿の後藤たちとユーザーとの間には、直接の人間関係までも育ちはじめていたである。
幸運にも自ら種を蒔く機会を与えられ、その種を育てることが企業にとっても社会にとっても、
そして自分自身にとっても幸福であると心から信じられた時、
これに携わるものが目を見張るほどのエネルギーを発揮することを、
大内も自分自身の若かれし頃の経験から知っていたのである。
当時社長の座にあった小林宏治会長に、二階級特進で新設された集積回路設計の本部長になれと内示を受けた時、
大内は、
社長、評価して頂いていることは光栄なことですが。
私は着手したばかりの医療電子機器の開発をもっと続けてゆきたいのです。
といったん逆らってみせたことを思い出したのである。
振り返ればそれも、彼が海軍時代に携わっいていた音波探知機の技術を
医療用の超音波診断という命を守る技術としてに生かせると心から信じることが出来たからこその反発であり、
それは日本電気にとっても医療分野への開拓が、将来大きな意味を持つと確信していたらからなのである。
確固たる組織的な枠組みを確立しなければ維持することの不可能な大企業では、
前例をなぞり、上司の顔色を伺いながら仕事をこなそうとする人間が自然と増えてくる。
だがこの自然の成り行きに身をまかせていては、企業はやがて社会の進歩のリズムに取り残されてしまうだろう。
確かにすべての大企業が自由でいられる訳ではない・・・
しかし組織の硬直化を防ぐには、会社の中ではなく外に目を向けた社員たちの、内から湧き上がってくる新しい発想とエネルギーこそが、唯一の特効薬になるのだ。
と、大内は考えていた。
それ故に、部下たちの熱意の行方を彼は見守りたかったのである。
もしマイクロコンピュータの販売という本業で実績を上げることが出来なければ、渡辺たちの逸脱は許せなかったであろう。
だが立ち上がりの一時期こそ苦しんだものの、マイクロコンピュータ販売部は本業でも着実に市場を切り開き、
突破口となったキャッシュレジスターに続き、ミシンや編機にもマイクロコンピュータが採用され、手の込んだ模様を簡単に縫い込める商品がブームを呼び、
かつてはゼロックスの独壇場だった複写機の領域に独自の技術で乗り込んだ日本のメーカーも、マイクロコンピュータの大口顧客となってくれた。
更には、アーケードゲームと呼ばれる業務用のゲーム機という伏兵までも登場していたのである。
そう、やがて家電業界の技術者たちは、このマイクロコンピュータによる高度な機能を新商品の差別化のポイントとして売り出そうと、競ってこの部品に飛びついていたのだ。
電子レンジが様々な調理パターンや解凍の機能を備え、エアコンがきめ細かな温度調節を引き受けるようになり、
ステレオやビデオそしてテレビがユーザーの注文を記憶し、洗濯機や冷蔵庫、掃除機など、
ありとあらゆる家電製品がコンピュータのコントロールによる複雑な機能を売り物にしはじめたのである。
更に一部のオフィスコンピュータやミニコンピュータといった情報機器にも、マイクロコンピュータが採用され、
こうしてデバイス事業部の販売部(マイクロコンピュ-タ販売部)は、市場拡大の流れに乗り、業績を伸ばしていったのである。
本業における実績を背景に、大内は部下たちの熱意にまかせ、日本電気という組織の枠組みの中では何処にも置きようのない、
個人の趣味のためのコンピュータというジャンルを少し育ててみることにしたのだ。
渡辺の逸脱の産物が予想外の売り上げを示しはじめた時、早めに然るべき組織的な体制を作ってしまうという選択もあったのかもしれない。
しかし彼は、うらやましいほどのその士気の高まりを見せる部下たちの勢いをかけがえのない宝と思えばこそ、
どこまで育つか定かではないパーソナルコンピュータと彼らを心中させる危険だけは避けたかったのである。
そうもしもこの先、この事業で失敗してしまったとしても、あれはあくまでデバイス事業部の道楽ですまそうと考えていたのだ。
うーん、これ以上先に進めば、もう道楽ではすませられなくなる。
と大内が初めて危惧を覚えたのは、渡辺がまったく新しいパーソナルコンピューターの企画を提案してきた時である、
部下たちがこれまで送り出してきた製品はすべて、半導体を売り出すための学習教材としてのTK-80の流れを汲んでいた、
しかし、78年に渡辺和也が提案してきた、コードネームPCX-01とする新しいマシンでは、これまでの製品を大きく飛躍させ
本格的なコンピュータを開発しようとしていたのである。
もしや、このコードネームPCX-01とは
そうこのマシンこそNECのPC-8000シリーズやPC-8800、そしてPC-9800シリーズを生み出すきっかけになる、パーソナルコンピュータのPC-8001なんだ。
しかしこの部下のこの提案に流石に大内さんは一時ゴーサインをためらうことに・・・
そう、社内にコンピューターの一大専門部隊を抱えるNECという組織の中で、
専門事業ではない半導体の販売部門が、極めて小規模とはいえコンピュータ事業に本格的に手を染めるということは、
半導体の販売部という業務の領域を超え、もう引き返しの出来ない市場への参入を意味していたのである。
そう部下たちは今、パーソナルコンピュータというパンドラの箱を開けようとしている・・・
今回はここまで
次回は、日本のパーソナルコンピュータ市場を大きく飛躍させることになるPC-8001の誕生と、
このマシンの成功による、日本電気社内での軋轢から、
それを察知した、この大組織のトップがいよいよ動き出す・・・
ご閲覧ありがとうございました