【PC98物語#7】世界初のパーソナルコンピューターの誕生
~ビル・ゲイツの登場、マイクロソフト、Altair8800~
ご視聴ありがとうございます。
今回は、パーソナルコンピューターの夜明け
世界初のパソコンの誕生、そして後にソフトウェア帝国を築くことになるビル・ゲイツの登場をご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
個人一人にコンピューターを持つことが出来るようになるパーソナルコンピューターが誕生したのは、
IBMPCやPC-98が生まれる7年前の74年のこと
当時メインフレームやミニコンといったコンピューターはまだ研究所や企業などで占有されていた時代
突如現れたこの小さなコンピューターから、パソコンの歴史がはじまるんだ。
そしてサードパーティーやソフトウェアも発展し、
MicrosoftやAppleなどのベンチャー企業が急成長する時代がやって来る。
世界初のパーソナルコンピューター、Altair8800アメリカ(アルバカーキ)に生まれる
1973年、アメリカの大手半導体メーカー(テキサスインスツルメンツ社)が電卓市場に参入し、価格競争を仕掛けると、
電卓キットの販売で急成長していたMITS社はたちまち窮地に追い込まれてしまう、
この会社がこの商品を39ドル(組み立て式電卓)発売していたにもかかわらず、近くのスーパーマーケットでは10ドルも安い29ドル(完成品の電卓)が並びはじめていた。
エレクトロニクスに対するマニアックな興味から会社(MITS社)を立ち上げることになったエド・ロバーツは、
会社を畳むのか、それとももう一度勝負に出るのか
という選択を迫られていたんだ。
丁度そのその頃(1974年)半導体メーカーのintelが新しいマイクロコンピューター(8080)が発表しており、
後に半導体業界の巨人になるこの会社は、
3年前の71年に世界最初のマイクロプロセッサー4004(4ビット)を開発し、
翌年には8008(8ビット・72年)を発売、次に登場したのがこの8080なんだ。
その後パーソナルコンピューターに広く採用されるようになるこのチップに、エド・ロバーツはいち早く目を付け、
一匹狼の気概にあふれる彼は、
この8080を仕入れ、桁外れに低価格なコンピューターを(組み立てキット式)販売すれば儲かるかもしれない
と考えた彼は350ドルで市場で出回っていたこのチップを
インテルから大量に仕入れる条件と引き換えに、75ドル(1個)で買い付けることに成功するんだ。
部品をかき集め、商品らしく体裁を整えケースを用意し、
Altair 8800と名付けられた組み立てキットを発売しようとしていたんだ。
そしてこの商品は翌年の1975年に
世界で最も売れている電子工学雑誌(ポピュラーエレクトロニクス誌・1975年1月号)に掲載されることになるんだ。
市販のモデルに肩を並べる世界初のミニコンピューターキットの発売
との賛辞が添えられ、表紙に掲載されることに。
読者が1000ドル以上お得の文字に引かれ読み進めると
Altair 8800は400ドル以下で作ることが出来る
とのタイトルが目に飛び込み
この会社(MITS:ニューメキシコ州アルバカーキー)の連絡先と、
同社から完全なキットが397ドルで提供されると掲載されていたんだ。
インテルのチップ(8080)をバラで手に入れるには、350ドルすることを考えれば、
あと47ドルで組み立て式のコンピューターを購入出来るという、実にお買い得な商品だったんだ。
何の役に立つかわ分からないけど、397ドルでともかく、自分のコンピューターが手に入る。
そしてこの雑誌(75年1月号のポピュラーエレクトロニクス)は、1974年の12月半ばから書店に並びはじめ、
エド・ロバーツは当初、雑誌への掲載の反響から
400台くらいの注文はなんとか受注できるかもしれない
と考えていた、
しかし雑誌が読者の手元に届いたその日の朝。
MITSの電話が鳴り響いたのである。
彼の予想に反し、倒産寸前のこの会社はその日のうちに、400台分の注文を受注し、
やがてアメリカ中から小切手や郵便為替を同封した注文書がが殺到しはじめたんだ。
そう、これが後に世界規模のマイコンブームの起爆剤となる、パーソナルコンピューターの始まりなんだ。
ポール・アレンとビル・ゲイツ、コンピューターとの出会い
ボストンでプログラマー(ハネウェル社)として働いているある若者もまた、この雑誌の記事に引き付けられた読者の一人であった。
記事を読み進めるうち、彼の胸には興奮と焦りの入り混じった思いを抑えられずいた。
やはりこうなったか。
こうなると決まっていたんだ。
と呟くと彼は高校時代の後輩で、これまで何度もソフト開発でコンビを組んできた、相棒のビル・ゲイツのもとに走ったのである。
そうこの若者こそ、後にビルゲイツと共に Microsoftを創立するポール・アレンなんだ。
彼とビル・ゲイツを結びつけたのは、2人が通ったレイクサイドスクール(ワシントン州・シアトル)でのコンピューターの授業でのこと
この私立の名門校、レイクサイドスクールでは、母親クラブの呼びかけからいち早くコンピューター教育に取り組むことが進められ(1968年春)
しかし当時のコンピューターはとても高価なため、購入出来ず、
そこで学校は一計を案じ、ミニコンピューター(DECのPDP-10)を保有しているゼネラルエレクトリック社と交渉し
使用時間に応じて料金を支払うというタイム・シェアリングの契約を結ぶことにしたんだ。
こうして高校のコンピュータールームには端末(テレタイプ:コンピューターを遠隔から操作できる機器)が設置され
このマシンを通してゼネラルエレクトリックのコンピューター(PDP-10)に接続し、
割り振られたマシンの処理能力を利用できるようになったんだ。
生徒の母親たちの有志はがらくた市を開き、この年の利用料にあてようと3000ドルを集めることに、
当時は、高校生がコンピューターに触れることなど、まずなかった時代
幸運にもこの学校の生徒は、多感な少年時代にコンピューターを体験出来る環境が整っていたんだ。
1955年10月28日に生まれたビル・ゲイツは当時、13歳の8年生
年上のポールアレンは10年生となっていた。
授業ではじめてコンピューターに触れることになる、少年ビルゲイツは、
端末(テレタイプ)の向こうからマシンが反応を返してくることに驚きながらも、とたんに興味を持つようになるんだ。
こうしてこの少年は、このマシンの虜となり
3目並べを手始めにゲームプログラムを書き始め
それを改良したり友達と見せ合ったりとコンピューターにのめり込んでいったんだ。
しかしゲイツたちがこの端末を独占することは出来なかった
上級生の何人かも、同時にこのマシンの虜となっており
そんな中の一人に、ポール・アレンがいたんだ。
コンピューターに取り憑かれた生徒の中でも、ポールとゲイツの熱中度は異常なほど群を抜いており、
ポール・アレンは効率よくプログラムが書けるアセンブリー言語に興味を持ち、
一方のゲイツは、簡単にプログラムを作ることが出来るBasic(1964年に誕生)に惹かれていた。
後にこの言語は、Microsoftの躍進のきっかけにもなり、
パーソナルコンピューターの標準言語として、世界中で利用されるようになるんだ。
やがて両親たちの集めた3000ドルは数週間で使い果たされ、
コンピューター会社から送られてくる高額な請求に目を丸くした学校は、
堪りかねて、2人の両親に料金の一部負担を求める事態に
更にこの年の秋には、二人のコンピューター熱を一層煽り、少年たちの技を磨く絶好の機会を提供するある会社が登場する
それはコンピューターの使用時間を切り売りするビジネスを目指して設立されたCCC社(コンピュータ・センター・コーポレーション)のなんだ。
学校がコンピューター(タイムシェアリング)を利用していることを聞きつけたこの企業は、サービスの売り込みに成功し、
レイクサイドスクールへのコンピューターサービスを始めるんだ。
ここから二人のコンピューターハッカーとしての悪童ぶりが発揮される。
この会社のマシン(PDP-10)に面白そうなプログラムが沢山詰まっていることを発見したアレンとゲイツは、
システムの中をしらみつぶしに探索し始めし、
通常の操作では触れることの出来ないデータにまで忍び込み、時にはシステムを使用不能の状態に陥らせることも
バグと呼ばれるプログラムの誤りや予想していない操作など、二人はクラッシュと呼ばれる使用不能状態にまでしてしまっていたんだ。
このミニコン(PDP-10)には、こうした脇の甘さやバグが数多く残されていたため、
一旦コンピューターがクラッシュすると、多くの利用者たちが、一斉にシステムを利用出来なくなってしまう、
少年たちの熱中ぶりに手を焼いたCCC社は、元々脆弱性のあるこのシステム(PDP-10)を徹底的に洗い直すため、逆に少年たちを利用することを思案する。
この会社はこのミニコン(PDP-10)を仕入れた時に
システムソフトウエアのバグを継続的に発見している間は代金の支払いを猶予する
という約をDECと結んでいた。
こうして夕方と週末に限り、ポールとゲイツは好きなだけコンピューター(PDP-10)を触れる代わりに、
どんな操作をした時にシステムがクラッシュするかを詳細に記録する約束を交わしたんだ。
二人は好きなだけコンピューターを使ってよいという夢のようなチャンスを与えられ、
若さの特権を十二分に発揮し、貪欲にコンピューターの知識を蓄え、目覚ましい勢いでプログラミングの力を養っていったんだ。
若者たちのはじめての起業体験
1972年の秋には、ポール・アレンは地元のワシントン州立大学に進み、コンピューター科学を専攻する。
この頃彼は、
プログラミングの力をビジネスに生かせないものか
と思い立ち、在学中(高校)のゲイツを誘い、道路の交通量に関するデータの解析を看板にかかげ、会社(トラフォデータ社)を設立する。
それは道路に仕掛けられた測定装置の吐き出すデータを解析し、これに基づき最適な信号の切り換え時間を提案するというビジネスを考え
低料金と迅速な処理を謳い文に、地方自治体に売り込みを図り、
始めての会社設立で、二人はおよそ2万ドルを売り上げることに成功する。
更にこの年(1972年)の夏。後にパーソナルコンピュータの布石となる転機が、彼らに訪れていた。
ポール・アレンはコンピュータ雑誌(ポピュラー・エレクトロニクス誌)の143ページ目の記事をビルゲイツに見せると
そこには intelが遂に8ビットのマイクロプロセッサー(8008)開発したと掲載されていた。
このチップ(8008)を扱うための、便利なソフトウェア(Basicインタープリター)が存在していいことに目をつけた二人は、
このチップ用の Basicインタープリターを作れないかと考え、早速プログラムを書き始め
ところが実際にソフト開発をしてみると
うーん、このプロセッサーの能力でBasicを乗せるのは難しいかもしれない
そうこのマイクロコンピューターでは、まだBasic言語が使えるほどの性能が備わっていなかったんだ。
こうして二人のソフトウェア製品(マイクロコンピューター用)を作り出すという夢は、挫折することに
しかし彼らは
このチップは確かに今のコンピューター(大型)に比べればごく限られた性能しかないのかもしれない、
しかしもう少し高性能なプロセッサーが登場すれば、もしかしたら面白いソフトウェアが作れる可能性がある。
と二人はパーソナルコンピュータの実現を待ち望みながら、チャンスを待つことに、
73年からアレンとゲイツは大手電機メーカーのTRW社でフルタイムのプログラマーとして働きはじめ、
経験を積んだプロとの共同作業で、2人はいっそうプログラミングの技に磨きをかけることになるんだ。
しかし学校の卒業間近になるとゲイツは、秋から大学に進学(ハーバード大学)することを考えるようになり
かねてからアレンと話し合っていたソフトウエアの会社を本格的に始める話にも引かれていたんだけれども、
もう一歩踏み込む事が出来ず、結局一進学する道を選んだんだ。
そして9月にはハーバード大学のあるボストンに移り
専攻は父親と同じ弁護士を目指して、法律学(数学、物理学、コンピューター科学も含む)を学ぶことに、
その後アレンもボストンでプログラムの仕事に就き、東海岸で二人は再び再会することになるんだ。
そんな翌年の74年4月。インテルから大幅に機能強化された8080が発表される。
これを知ったアレンとゲイツは、
これでもう複雑で巨大なコンピューターの時代は終わりを告げ、一人一台のマイクロコンピューターの世界が必ずやって来る。
と感じていた
そこで二人は再びソフトウェア(8080用BASICプログラム)の開発に着手し、
大手のコンピュータ会社に売り込みを開始する
しかし二人の提案に対する反応はどの会社からも全くなく
そう大手メーカーは未だににマイクロコンピューターには関心を示していなかったんだ。
二人がなかなかチャンスを掴むことが出来ずにいた、そんな翌年の1975年。
アレンがポピュラーエレクトロニクスでAltair 8800の記事と出合ったのは、そんな時であった。
アレンはハーバード大学の寮へと走り込み、
Altair 8800の記事が掲載された雑誌をゲイツに見せながら、
ビル、俺達抜きでマイクロコンピューターが動き始めている
とうとう、僕たちが待ち望んだ世界がやって来たんだ。
だけどもしかしたら、もう誰かがこのマシンのソフトを書きはじめているかもしれない
アレンの言葉に、ゲイツの奥底からは興奮と焦りの入り混じった思いが溢れてきた、
ビル、このまま立ちすくんでいたら、列車に乗り遅れてしまう
そう二人は是が非でもコンピューター革命の第一ステージに参加したかったんだ
そう、待ち望んでいたパーソナルコンピューターが遂に登場したのである。
それはゲイツの中からすべての迷いが吹っ切れた瞬間だった。
ポール、もう一度会社を起こそう
二人の最初の仕事は決まっていた。
彼らが何度も求め続けた マイクロコンピューター(CPU8080)用の BASICの開発である
いよいよ、ビル・ゲイツが世界初のパーソナルコンピューターのプログラムを書き始める
それはその後ソフトウェア帝国を築くことになるMicrosoftの誕生であり、
世界規模のマイコンブームの始まりでもあるんだ。
そして数年後には、このパーソナルコンピュータは以外なかたちで発展をとげ
70年代末には、後にスマートフォンで世界を変えることになる、あのメーカーも登場する。
今回はここまで、
次回はMicrosoftのの誕生そして、二人のスティーブの登場ををご紹介させて頂きます。
ご視聴ありがとうございました