任天堂ゲームの原点、ドンキーコングの誕生
ゲーム史上、世界で最も知られることになる、任天堂の看板キャラクター、マリオの登場
ご訪問ありがとうございます。
今回はその後数々の名作を生み出すことになる任天堂ゲームの原点とも言うべき作品、ドンキーコングの誕生をご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
海外進出の第一歩としてアメリカに拠点を構えた任天堂は、
山内社長の号令のもと
自社開発したゲーム機(レーダースコープ3000台)をアメリカに送り出し勝負に出るんだ。
しかしこのゲームは全く売れず、
倉庫には埃を被ったマシンが山積みの状態になってしまう。
このままでは会社が潰れる
と海外拠点の危機を察知した山内さんは、新しいゲーム機を開発することを決断するんだ。
そしてこの任天堂のトップが呼びかけた企画募集に意外な人物が手を上げることに、
そう、ここから任天堂のゲーム王国の時代が始まり、
家庭用ゲーム機という新しい市場が大きく動き出してゆくことになるんだ。
ドンキーコングの誕生
募集されたゲーム企画の中で山内社長の目に止まったのは、
クリエイティブ課で商品のデザイン(クリエイティブ課)を担当していた、宮本茂(当時19歳)さんの作品なんだ。
彼は京都郊外の園部で、漫画や野球とともに育ち、
大学(金沢美術工芸大学・専攻:工業デザイン)を卒業すると任天堂に入社(77年)し、
その後4年間、玩具やゲームキャラクターなどのデザインを担当していたんだ。
ここで山内社長は
ここはひとつ、彼にやらせてみるか
しかしこの若者にはまだゲームを開発した経験(ディレクター)がなかったんだ。
そこで任天堂の開発部のエースである、横井軍平さんに声をかけ
宮本の教育係に指名するんだ。
彼は任天堂開発部で長年玩具(光線銃・ゲームウォッチなど)を作り続けてきた豊富な経験があり、
正に宮本さんにとってこのベテランクリエイターは理想の教育係だったんだ。
師匠とも言える人物との開発経験は、この若者に大きな影響を及ぼすことになり
その後の任天堂のゲームづくりのDNAとして継承されてゆくことになるんだ。
こうしてこのゲーム制作がスタートし、
この企画で題材となったのが、世界的な人気を誇るキャラクターのポパイなんだ。
このキャラが採用された発端は、
20年前に任天堂が多角化経営を目指し、食品業界(食品子会社・三近食品)に参入しようとしていた時代まで遡るんだ。
このキャラクターで最初に売り出されたのは、インスタントのポパイ・ラーメン
60年代にはポパイ・トランプが登場し、
そして80年にはゲーム&ウオッチからポパイゲーム(81年)が発売されるんだ。
その流れの中で
今回のゲーム開発でも長年ライセンスを獲得してきた、ポパイでゲームを作ろう
ということになり
この人気キャラをベースにゲーム企画が立ち上げられたんだ。
そのため敵キャラにはブルータスを
助け出す女の子にはオリーブを
そして主人公にはポパイが採用されることになるんだ。
しかし・・・
世界的に有名なキャラクターをゲーム(アーケードゲーム)の題材として利用するには数年もの交渉期間がかかること発覚する。
そして
計画は変更
ということで、宮本さんはこのキャラクターに変わる新しい題材でゲームを作り直すことを余儀なくされたんだ。
そこでブルータスの代わりに、悪役としてゴリラを採用し
主人公が救い出す恋人として、オリーブの代わりに、レディ(ポリーン)という名前を付け
そして主人公にはポパイに代わり、ジャンプマン(仮の名前)と名付けられたキャラクターが登場することになるんだ。
そう、この有名キャラを利用出来なくなったことが、
後にゲーム史上、世界で最も知られることになる任天堂の看板キャラクターを生み出すことになるんだ。
こうして、プロデューサーが横井軍平さん
ゲームデザインが宮本茂さん
開発はレーダースコープの開発経験のある、この基板を知り尽くしている池上通信機が担当し
ドンキーコングが開発されることになったんだ。
ドンキーコングの発売。
任天堂本社で新しいゲームが完成した頃、
アメリカ支社(NOA)は、拠点再びを西海岸(シアトル)へ移していた。
京都の本社から新しいゲーム機のROM交換キットが到着すると、
スタッフは早速、この新しいゲームの反響を試すため取引先の店舗(シアトル市内のBar)に設置してみることにしたんだ。
するとこのゲームに差し替えた途端その、売上が倍増し
この現象に驚いた社員は、更にシアトル市内の取引先に一斉に売り込みを開始すると、
各店舗から追加注文が殺到するようになるんだ。
やがてこの評判を聞きつけ、業者から次々と注文が舞いこむようになり、
埃を被っていた在庫(2000台)は1ヶ月(81年の秋)で完売し、
更に日本から船便で届いた商品も直ちにトラックに積み込まれ、アメリカ全土へ運ばれてゆくことになるんだ。
それでも注文に間に合わないということで翌年の82年には、
自社製造をはじめ、
ドンキーコングは月に1000台以上も製造されるようになるんだ。
こうして倒産の危機にあったニンテンドー・オブ・アメリカは、
この年(81年)1億8000万ドルの売り上げを達成し、
やがてこのタイトルは全世界で6万台も出荷されることになるんだ。
この快挙はアメリカのメディアでも注目され
権威あるニュース雑誌、タイム誌の表紙(82年1月号)には、
ドンキーコング、世界を席巻する
という見出しが躍ることに。
ドンキーコング、家庭用ゲーム機に登場
そしてこの人気タイトルは、アーケードゲームに留まらず
急成長していた家庭用ゲーム機にも登場することになるんだ。
しかしこのタイトルがはじめて自宅で遊べるようになるのは、
任天堂のファミリーコンピューターではなく、海外の玩具メーカーからだったんだ。
そのきっかけはあるアメリカの会社が、新商品を携えこの任天堂を訪れたことから始まる。
80年代はじめのアメリカでは、Atari2600を始めとする家庭用ゲーム機が、日本よりも数年早く最盛期を迎えようとしていた。
この業界に新規参入してきたコレコは、最新のゲーム機を日本市場にも売り込みをかけようと、
国内の玩具業界に太いパイプを持つ任天堂に目をつけ商談にやって来たんだ。
そして京都を訪問したのがこの商品の開発責任者であるブロムレイさんなんだ。
この商談に立ち会っていたのが山内社長と
その後家庭用ゲーム機、ファミリーコンピューターを生み出すことになる開発部の上村さんなんだ。
この会社は、まずアメリカの市場動向から任天堂への売り込みを開始する。
弊社は1932年に創業し70年代にはアタリVCS(家庭用ゲーム機・76年参入)のゲーム制作で大きく成長してきました。
御社もご存知の通り、アメリカの家庭用ゲーム市場は70年代末から飛躍的に拡大しており、
そこで弊社はさらなる成長を目指し、新たな商品を開発したのです。
それが最新の技術(ビデオプロセッサ:TMS9928A)が投入された家庭用ゲーム機、コレコビジョンです。
ここからは御社へ訪問させて頂きました主旨となります、弊社からのご提案なのですが
提案ですか?
はい、このゲーム機を御社が日本市場で発売してみては如何でしょう
ほう
我社は日本の家庭用ゲーム市場は、これから益々成長するものと予想しております。
確か御社の競合であるエポックからも新商品(カセットビジョン)が発売されたとお聞きしております。
しかしこのマシンは、他社のゲーム機よりも遥かに高性能なマシンですから、日本でも高いシュアを獲得することが期待できると考えております。
御社がもし自社開発するとなると、かなりのリスクを背負っての参入となり、
弊社の商品を販売するということになれば、リスクも少なくすぐにでもこの市場に参入出来ると思うのですが
如何でしょう
うーん
確かに御社のご提案は非常に魅力的なものです。
しかし今ここで即答するわけにもいきません。
少し社内で検討する時間を頂いても宜しいでしょうか
はい、それは構いません。
こうして、任天堂とコレコの商談は一旦保留状態で終了することになるんだ。
そして二社の交渉が一時中断している間、
彼が任天堂本社の通路を歩いていると、
奥の部屋から電子音が聞こえてきたんだ。
ピコピコピコ
ピコピコピコ
んー何だろう。この音は?
ブロムレイさんは、音のするオフィスの前を通りかかった時
丁度、任天堂のスタッフがリリース前の商品テストをしていたんだ。
彼は通りがかりに目にしたこの商品に興味を持ち、任天堂の社員に声をかけてみる。
あのーすいません、
何をしているんですか。
いやー、新しく開発したゲームのテストをしているんです。
開発中のゲームですか?
あのー少し見せて頂いても宜しいでしょうか?
構いませんよ。
とブラウン管を覗いたブロムレイさんは、
今まで見たこともない不思議なゲーム感覚に驚くことに
この商品はこれまで業界でブームになっていたスペースインベーダーなどのシューティングゲームとは、全く違う発想の作品だったんだ。
んーこれはすごいゲームになるぞ、
この商品は絶対にヒットする。
我々はすぐにでもこの商品の権利を手に入れなければならない
とあまりの驚きに彼は、本来の目的も忘れ、
この不思議なゲームの権利を獲得するため奔走することになるんだ。
任天堂さん、少しご相談があるのですが宜しいでしょうか
何でしょう
先程、たまたま通りかかりに御社が開発されています、ゲームを見せてもらったんです。
ほう
その商品を弊社のコレコビジョンで発売したいのです。
こうして彼はこのゲームを移植する(家庭用ゲーム機)契約条件を、任天堂から引き出すことに成功するんだ。
しかし任天堂も長年玩具業界で商いを営んできた会社、
この老舗企業は突然の交渉ごとにも動じず、しっかり厳しい条件を提示していたんだ。
コレコ社、二つの条件を任天堂からの要求される、
その1つ目が
一カートリッジあたり2ドルを支払うこと
そして二つ目が・・・
明日までに前金として20万ドルを振り込むこと
というものだったんだ。
ブロムレイさんは、自分ではこの契約を決められないとして
直ぐに最終決定権のある
上司のグリーンバーグ社長に決済を仰ぐことに
彼はそわそわしながら朝の7時(アメリカ時間)になるまで待ち続け、
コレコの社長を国際電話で呼び出す。
ルルルルル
ルルルルル
はい、グリーンバーグです。
社長ですか、開発責任者のブロムレイです。
おー、ブロムレイか
こんな朝早くから・・・
確かお前は日本に出張中じゃないのか?
はい、丁度、任天堂本社で商談中なんです。
あのー社長、落ち着いて聞いて欲しいんです。
なんだ急に
任天堂で今までに見たこともない最高のゲームを見つけたんです。
何ー
新商品(コレコビジョン)の売れ行きに関わるゲームタイトルを発見したんです。
それに先方から、契約条件も既に引き出しています。
ほーそれで、条件とは?
はい、一カートリッジあたりの支払い手数料は、2ドルだけでいいそうです。
おーそれは、いいね
但し2つ目の条件として、本日までに前金として20万ドルを先方に振り込まなければならないんです。
え・・
今日中に支払えと言うのか?
しかし、そんな大金を急に必要と言われても、そう簡単工面出来ないぞ
分かってます、無理を言っていることは十分に承知で相談しているんです。
うーん
社長、このゲームは絶対に売れます。
間違いなくコレコビジョンのキラーソフトになりますよ。
そんなにすごいゲームなのか?
はい、間違いなく新商品を後押しするタイトルになります。
それで、その作品の名前は何て言うんだ?
・・・
ドンキーコングです。
その後、コレコはなんとか資金を工面し、
無事、このゲームのライセンスを獲得すること成功する。
そう、この作品が初めて家庭用ゲーム機に登場したのは、
日本のファミリーコンピュータではなく、海の向こうのアメリカ(インテレビジョン・Atari 2600・コレコビジョン)だったんだ。
こうしてこのゲームタイトルをキラーソフトに掲げたコレコビジョンは、82年8月に発売され、
移植されたドンキーコングの高い完成度から
その評判に後押しされるように、このマシンは初年度50万台が出荷され、
翌年(83年)には累計販売台数100万台を達成することになるんだ。
一方日本では任天堂からファミリーコンピューターが発売(83年)されることに
しかしこのコレコの成功は、訴訟大国アメリカで、数々の裁判を起こし収益を得ていた映画会社の目に止まることになるんだ。
ある日、新商品(コレコビジョン)の出荷準備をしていたコレコに、この会社から投資したいというオファーが寄せられる、
しかしそれは玩具業界をターゲットにした、この会社の罠だったのだ。
そうこの企業は弁護士を引き連れこの急成長している業界に、その牙を向け始めたんだ。
やがて多くの企業がこの映画会社に屈服してゆく中、
任天堂にも
御社は我々商標権を侵害している、直ちにドンキーコングの全所有権を放棄せよ
との通告が送られてくる。
いよいよ任天堂とハリウッドが戦うことになる、キングコング裁判の幕が降ろされようとしていた。
今回はここまで
次回は最終回、任天堂のカービィVSハリウッドの戦いをご紹介させて頂きます。
ご閲覧ありがとうございました。