任天堂とハリウッドの対決、
キングコング裁判の幕開け、ニンテンドー・オブ・アメリカの誕生、ドンキーコング
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今回は1980年代はじめに繰り広げられた任天堂とハリウッド(Universal)のキングコング裁判についてご紹介させて頂きます。
Youtubeにもこの記事の動画が公開されていますので、ご興味がある方は是非ご参照ください宜しくお願いいたします。
キングコング裁判とは任天堂の大ヒットゲーム、ドンキーコングを
ハリウッドの大手映画会社のユニバーサルスタジオが、映画(キングコング)の商標権を侵害しているとして起訴を起こした出来事なんだ。
当時の任天堂はまだ、日本の小さな玩具メーカーだった頃(ファミコン発売前)、
そんな中小起業の会社がハリウッドと戦うことになるんだ。
この頃、もし任天堂の社長である山内さんの決断がなければ、
その後のファミリーコンピューターやスーパーマリオも生まれていなかったかもしれないんだ。
ニンテンドー・オブ・アメリカの誕生
この物語の始まりは、任天堂が海外に進出しようとしていた80年代はじめのニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)の誕生から始まるんだ。
後の中興の祖とも呼ばれるようになる、山内溥社長の曾祖父である山内房治郎は、
1889年、花札と呼ばれる色鮮やかなカードを製造する店を京都に開き、任天堂骨牌(カルタ)と命名する。
この任天堂という言葉は運を天に任せるという、つまりカードゲーム(博打)で起こる偶然を意味しているんだ。
この会社の主力商品である花札はその精巧さと流通を抑えた経営手腕からロングセラーとなり、
その後も日本の第二次世界大戦後の復興や、
1964年の東京オリンピック、70年代のオイルショックによる狂乱物価などの動乱の時代を、任天堂は必死に生き抜いてきたんだ。
1949年、この老舗会社の二代目である祖父(山内積良)が脳卒中で倒れると、
若干22歳の山内溥は三代目の経営者として、この小さなカードメーカーを引き継ぐことになるんだ。
そしてこの若い経営者は先頭に立ち、会社の改革に取り組むことに、
しかし次々と挑戦したビジネス(インスタントライス・タクシー会社・ラブホテルなど)はどれ一つとしてうまくいかず、
結局本業(カード・玩具店)の販売網を活かした商に集中することに
任天堂が今日の娯楽メーカーとして躍進するきっかけとなったのは、山内さんと横井軍平さんとの出会いから始まるんだ。
工学部卒業(同志社・電気工学科)の社員第一号として入社した横井さんは、
仕事の合間に暇つぶしに作った玩具で遊んでいたところを、
それを見た山内さんが、これを商品化することを決断する。
このウルトラハンド(1970年)は120万個以上売れるという大ヒット商品になり、
その後異性との相性を測るラブテスターや光線銃自リーズなど次々とヒット商品を発売し、
任天堂は玩具業界で着実に足場を固めてゆくことになるんだ。
しかし70年代に社運をかけて勝負したレジャー事業(レーザークレー射撃場)の失敗から、会社が傾きかけてしまい、
そんな任天堂を救うゲーム機が登場する。
それが80年に発売された携帯ゲーム機、ゲームウォッチなんだ。
この商品は予想以上の大ヒットを記録し
任天堂が抱えていた70億円もの負債を完済し、倒産の危機を回避することに成功する。
浮き沈みの激しいの玩具業界で長年商いを営んできた山内社長は、
今は軍平が開発した携帯ゲーム機が好調だが、数年もすれば子どもたちに飽きられてしまう、
それに日本の市場だけではリスクが大きすぎる。
とゲームウォッチで蓄えた資金を元手にで、更に勝負に出ることに
ここで任天堂のトップが決断したことは、新商品の開発と海外進出なんだ。
この経営者の判断が後に家庭用ゲーム機、ファミリーコンピューターの誕生と
任天堂が世界的大企業へと躍進する、海外ネットワークの開拓へとつながってゆくんだ。
新商品の開発は開発部(開発二部・上村部長)に任せるとして
だが我社の新しい子会社を誰に任せるのか?
と思案した山内社長は、
息子の克仁では、アメリカの子会社を一任するにはまだ若すぎる、
他の2人の娘は、すでに嫁に出ている・・・
しかし山内家には、娘婿を同族会社へ迎えた先例がある・・・
それならいっそ、長女(陽子)の夫に海外支社を任せてみてはどうだろう
と考えたんだ。
但し、本人が望めばの話なのだが。
陽子の夫、荒川實は京都の裕福な繊維会社の次男として生まれ、
日本の商社(丸紅財閥)で海外の不動産開発に携り、この頃荒川夫妻はカナダ(バンクーバー)に住んでいたんだ。
彼は英語も堪能で、アメリカの名門大学であるMIT(大学院)で学位を取得し、ワーゲンバスで米国を横断するなど、
山内社長は親族の中でも抜きん出いた逸材と見込んでいたんだ。
そしてこの娘婿に白羽の矢を立てる。
一度は社長(義父)からの誘いに、入社することを拒んでいた彼は、
結局、妻(陽子・山内社長の長女)の反対を押しきり、新しい子会社(NOA)を設立するという大仕事任を引き受けることにしたんだ。
そう山内社長の説く、任天堂の未来像には説得力があったんだ。
しかし妻(陽子)の悪い予感は、バンクーバーからシアトルへ到着した日に的中する。
任天堂はすでにシアトルを拠点(NOA)にした販売網を築きあげていた、
しかし現実にはトラック運転手を二人(ロン・ジュディ・アル・ストーン)雇っているだけだったのである。
社長のビジョンと現実のギャップに唖然とする夫妻、
それでも二人は逆境にもめげず、手始めにハワイからゲーム機を輸入しシアトルで販売することから着手する。
その後本社(NOA)を東海岸に設立するため、アメリカを自動車で横断し、
バンクーバーから5000キロ離れたニューヨークに店を構え、
倉庫はハドソン川を渡ったニュージャージー州(エリザベス)に借りることにしたんだ。
夫妻がこの東海岸の大都市を選んだのは、ここが世界の玩具産業の中心だったからなんだ。
この頃アメリカゲーム市場では、日本から誕生したスペースインベーダーが大流行(シューティングブーム)しており、
当然任天堂もこの流れに遅れまいと新しいアーケードゲーム(レーダースコープ・1980年)を開発していたんだ。
山内社長は
今こそアメリカで成功する絶好の機会だ。
と荒川さんに宣言し、
任天堂トップの号令のもと
本社では3000台のレーダースコープの製造が始まり、京都からアメリカ(二ュージャージーの倉庫)へ出荷されることになるんだ。
彼のニンテンドー・オブ・アメリカでの最初の任務は、このゲームをすべて売りさばくこと。
これに成功すれば、任天堂は米国市場に足がかりを得られ、
日本市場だけでなく、海外へも販路を広げることが出来るようになるんだ。
しかし・・・
このマシンは全く売れなかったんだ。
ニンテンドー・オブ・アメリカの命運を掛けたこのゲーム機(レーダースコープ)は、
社内の開発部隊(任天堂第二開発部)が、ナムコのギャラクシアンに衝撃を受け、
コスト度外視で開発に没頭し、相場より2倍以上高価なマシンを完成させてしまっていたんだ。
そのため価格にシビアなアメリカでは受け入れられず、
それにこのゲーム機がニューヨークに到着した頃には、シューティングブームも終焉を迎えていたんだ。
それでも荒川さんは1000台を必死に売りさばき、なんとか製造と輸送費用は回収出来たものの
倉庫(ニュージャージー)には、まだ2000台もの在庫が埃をかぶっていたんだ。
こうなると思ったから、あなたは父と一緒に仕事をしてほしくなかったのよ
と父親(山内社長)の性格を知り尽くしている妻(長女。陽子)は、予想通りの顛末に
社員を雇う資金もなく秘書を担当していた、彼女は今や一日に三箱も煙草を吸うようになっていた。
夫(荒川)の賭けは成功にはほど遠く、会社を設立して早々窮地に立たされてしまったのだ。
ここで荒川さんは、
自分の存在価値を義父に認めさせるにはどうしたらいいのか?
利益は減っても売り続けるのか?
それとも売れ残りを処分して、来年のモデルに賭けるのか?
だがどちらの道を選んでも、社長は私をクビにしかねない
義父(山内社長)は社長就任以来、親族の首を切ることにかけては豊富な経験を積んできている。
哀れな親族と同じ運命を辿らないようにするには、どの道を選ぶべきなのか?
と彼は山内社長の顔を思い浮かべていた。
荒川實がアーケードゲーム市場の参入に失敗したことは無理もないことだったんだ。
生存競争の激しいこの国で、会社を成功させることは至難の業であり、
ましてアメリカの大企業(エキシディ社・シネマトロニクス社)でさえ、ゲーム業界で圧倒的な強さを誇るアタリ社の前に敗北を重ねていたのである。
このメーカーは人気ゲームを次々生み出す人材を大勢抱え、一度に数千台ものゲーム機をリリースするトップメーカーとして業界に君臨していたんだ。
資本金(ワーナー・コミュニケーションズ社の傘下)は、約1億ドルにものぼり、
巨大企業アタリと設立したての任天堂アメリカとは、少年が巨人に立ち向かう、正にダビデとゴリアテの戦いのようなものだったんだ。
こんな巨大企業にどうやって立ち向かえというのか
荒川には見当もつかなかった。
それに彼には社長から指示されている、ある悩みがあったんだ。
それは自社のゲームを直販しなければならないことなんだ。
当時日本のゲームメーカーはゲーム販売では現地の企業にライセンス供与する方式をとっており、
大ヒットしていたパックマン(ナムコ)とスペースインベーダー(タイトー)なども、ミッドウェイ社(アメリカ)を通して販売していたんだ。
しかし任天堂は100年にも及ぶ歴にの中で、販売経路を自社で掌握することで生き残ってきたことから、
山内社長は外国でも同じ手法で市場開拓を図ろうと考えていたんだ。
そのため設立間もない任天堂アメリカは、2つの難題に直面していた
それは売れるゲームを自社から工面すること、そして中間業者を使わないことなんだ。
荒川さんは、全くの荒れ地をゼロから販売網を開拓し、
海賊版の取り扱いをはじめとする、マフィアなどの裏社会との関わりを十二分に注意しながら、
この未開の地で辛抱強くネットワークを広げてゆく必要があったんだ。
このままでは会社が潰れる
という思いから荒川さんは、山内社長に国際電話を通じアメリカ市場の現状と
今後の対策について相談することにしたんだ。
彼は事実を整理しこう切り出した、
レーダースコープはもうこれ以上売れる見込みはありません。
1000台はなんとか売りさばきましたが、倉庫に埃をかぶった在庫が山積みになっています。
資金も尽きかけていますし、直ぐにでも新しいゲームを売り出さなければなりません。
確実に売れる商品が必要なのです。
そこでお義父さんご提案があります。
提案
はい、資金をなるべく使わず新しいゲームを発売出来る方法があります。
ほう
それはゲームそのものを変えてしまえばいいのです。
彼の提案する大博打とは全く新しいゲームを作るのではなく、在庫のゲーム(レーダースコープ)を別のゲームに仕立て直す(ROM交換)ことだったんだ。
そうすれば、任天堂アメリカは在庫のコストを節約出来、
しかもROMは空輸すれば数日で届くため、
京都から地球を半周して、新しいゲームを輸送するよりも迅速に商品を発売出来るんだ。
確かに大胆な提案ではある。
昨日売れ残ったランチを温め直し、ディナーのメインディッシュにしようというのか、
アメリカ市場に食い込むと言っても、これでは単に損失を最小限に抑えようとしているだけだが・・・・
しかしダメ元でもやってみる価値はある。
山内社長はこれを認め、在庫(レーダースコープ)を一掃するため新しいゲームを開発することを決断するんだ。
しかしここで思案しなければならないことがあったんだ。
社内の開発部隊は、みな自分の担当ゲームに掛り切りであり
彼らをこの突貫工事のために、今のプロジェクトから外す訳にはいかなかったんだ。
この頃任天堂開発のエースである、横井軍平さん(開発一部)はゲームウォッチの開発で忙しく
開発二部の上村チームは、部下を開発一部の手伝いに駆り出され手薄になっていた。
そう任天堂は今、ゲームウォッチの大ヒットで、開発部隊は総力を上げて新商品(ゲームウォッチの新機種)の制作に取り掛かっており、
とてもアーケードゲームを作る余裕などなかったのである。
そこで山内社長は一計を案じる、
うーん、開発部隊が多忙ならいっそのこと他の部署の人材を活用してみては?
とアメリカ支社が要望するゲーム企画を社内公募というかたちで募集することにしたんだ。
任天堂のトップは、ROM交換キットのアイデアを社内コンペを行うと発表する。
この山内社長の判断から、
以外いがいな人物が、ゲーム企画に手を挙げることに、
この時から任天堂のゲーム王国としての歩みが始まる。
この人物が作り出した、アーケードゲームは潰れかけのアメリカ支社を救い、
更にゲーム史上、世界で最も知られることになる、任天堂の看板キャラクターを生み出すことなるんだ。
そうニンテンドー・オブ・アメリカの危機が
新たな人材の才能を引き出すチャンスを作り出し、
そして任天堂が訴訟王国アメリカのターゲットになる切っ掛けを生むことにもなるんだ。
今回はここまで、
次回は任天堂対ハリウッドの対決、第二幕、ドンキーコングの誕生をご紹介させて頂きます。
ご閲覧ありがとうございました。